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コロナ禍転じて福となす社会へPart3・人類にソーシャルディスタンスが必要な本当の理由とは?

【成果8】「ソーシャルディスタンス」という名の【パーソナルスペース】の尊重

 実は、この8つ目の成果こそが、私が最も伝えたかった、コロナ禍に伴う世界の変化の核心部分である。

 コロナ感染対策として、私たちに求められてきた数々の行動ルールは、知らず知らずのうちに、私たちの倫理観を大きく塗り替える働きをしている。
 例えば、これまでの社会では、疫病にかかった人に対して「自分がうつされてはイヤだ」と、感染者を忌み嫌って遠ざけようとする態度だけが当たり前だった。確かに今回のコロナ禍でも、感染者に対する中傷やイヤがらせという事態も、各地で多少なりとも起こってはいる。
 ただ、今までと大きく違うのは、【たとえ無症状でも、知らずに感染していて他者にうつす可能性がある】という知識が広まったお蔭で、私たちは【自分自身が、他者の命を害する可能性がある危険物かもしれない】という態度で、周りの人に慎重に接するマナーを誰もが実行するようになった。これは、何という謙虚な「下座の行」だろうか…!

 しかも、人から人への感染経路が、主に「接触感染」と「飛沫感染」のみと認定されたことから、お互いにうつし合わないための対策として、今や世界共通の約束事となった感のある「マスク着用」「ソーシャル・ディスタンス=社会的距離(又はフィジカル・ディスタンス=身体的距離)」という2つの行動ルールが設定されたことの意義は大きい。
 実はこのルールによって世界は、いつの間にやら人間1人1人の体を尊重し合う、「個人の尊厳」が守られる社会へと劇的に変容しつつあることにお気づきだろうか?

 ためしに、今年の5月にアメリカのとある場所で撮影された、次の写真を先入観なしに気軽に見てほしい。

2020米国コロナ記者会見pictureのみ

 ──何やら「楽しそう」に見えないだろうか?

 実はこれ、ロックダウン最中の5月11日に米国ワシントンのホワイトハウスで開かれた、トランプ大統領による記者会見で、距離をあけて座る記者団の様子。(東京新聞・5月12日付)
 そのようなシリアスな場面に対して「楽しそう」とは不謹慎かもしれないが、私がそう感じずにいられなかったのには、深い理由がある。

 心理学の用語で「パーソナルスペース」というのをご存知だろうか? 人間が無意識のうちに、自分の体の周囲に「なわばり」として感じている一定の空間のことを指し、そこに許可なく他人が入ってくると不愉快になってしまうことがわかっている。
 面白いのは、その空間のサイズが、相手との親密度によって段階的に変化するのだが、一般的な知人レベルでは、およそ1mから2mの範囲だということ。そう、ちょうど【ソーシャル・ディスタンス】の定義と一致しているわけだ。
 つまり、【成果4】でお話ししたような、混雑した空間で私たちが感じていた「不快」の正体とは、見知らぬ人と「お互いの同意なくパーソナルスペースを侵し合う」という無礼に対する居心地の悪さだったと言える。

 ここで先ほどの写真に話を戻すと、もしこれがコロナ禍以前の世界だったなら、会場の記者たちの椅子は、ギッシリと窮屈そうに整列させられていたはずだ。なぜなら、それが空間をより効率よく使うことだと信じられていたから。
 ところが今や記者たちは、パーソナルスペースを侵し合わない距離を保ちながら、緑豊かな芝生の上に、不規則に散らばって着席している。その眺めがいかにも「快適そう」だからこそ、「愉快な感じ」を覚えずにいられなかったのだ。

 実際、コロナ禍以降、飲食店であれ娯楽施設であれ、街中のどこへ行っても、私たちが1人で使える席や空間が、はじめから広々と贅沢に確保してある。もはや誰からも「もっと詰めて」と言われることがない。

 たとえカジュアルな飲食店でも、スタッフが自分1人のために、直前の人が使ったテーブルや道具類を消毒してくれ、その都度ホテルのようにリフレッシュされた空間が提供されるようになった。
 その一方で、接客に当たる各種店舗のスタッフも、お客からウイルスをうつされることにならないよう、様々な防護ツールで手厚く守られている。

 このように私たちの誰もが日常生活のいたる所で、他人からいちいち「自分の体が尊重をもって扱われている」ことも、【成果7】でお話しした自殺率激減に大きく関わっているに違いないと私は考えている。
 体を丁寧に扱われることは、心に効く。それは、自己肯定感を底上げする働きをするのだ。

 最新の心理学では、人間は近距離のパーソナルスペース内にあるものを、「自分の体の一部」であるかのように知覚できることがわかっている。この事実を少し大胆に解釈すると、パーソナルスペースとは本当に「自分の体の範囲」に含まれるのかもしれない。
 というのは、よく存在感が強い人のことを「オーラがある」と表現する場合があるように、実は存在感の強弱にかかわらず、私たちの肉体の周りには、もう1つの体のような形で〝電気の場〟が広がっていることが、高電圧写真などで観測されてもいるのだから。

 つまり私たち人類は、肉眼では見えないコロナウイルスから身を守るために、やはり目に見えない飛沫を考慮してソーシャルディスタンスを守ることにした結果、「目に見えない部分を含めた人の体」を尊重する人間に、たとえその自覚がなくても〝進化〟したのだと言える。この変化を一過性でない、本物の進化にするためには、コロナ禍の収束後も、新たに身につけた行動ルールを、これからの時代の「スタンダード(当たり前)」として継続する必要がある。

ソーシャルディスタンスのお蔭で社会から消えるものとは?

 実はこの「ソーシャルディスタンス」と「テレワーク」によって、この社会で「必然的にできなくなるはずの行為」があることにお気づきだろうか。
 ──それは、「痴漢」と「セクハラ」である。

 そこが交通機関でも映画館でも、誰もが距離を取り合っている中では、どさくさにまぎれた痴漢行為は至難の業だろう。
 また、職場の会議も飲み会もオンラインとなれば、その場の雰囲気に乗じたボディタッチはできない。狙った相手と2人きりになったスキを突くことも不可能だ。いわゆる「酒の席の間違い」は、起こりようがなくなる。
 1対1の打合せなどでは、接触なしでも「言葉のセクハラ」はあるかもしれないけれど、何しろオンラインなのだから、イヤなら切ってしまえばすぐ逃げられる。

 近年は職場内だけでなく、就活生に対する社会人からの「就活セクハラ」も社会問題となり、つい昨2019年の調査では、実に10人に1人の就活生男女が「セクハラを受けた」と回答していた(日本労働組合総連合会調べ)。けれども、コロナ対策でオンライン面接が多用されることとなった今年は、その被害も激減するのではないかと予想する。

 はじめにお伝えしたように、現在のコロナ禍は、過去2千数百年にわたって続いてきた人類全体の価値観と生き方の「弊害」を清算し、より快適に生きられる方向への進化を促す「自浄作用」として起こっている。

 なぜそう言いきれるのかといえば、現実に20世紀から「このままの経済活動を続けていては、地球の自然界が滅びてしまう」と多くの科学者が警鐘を鳴らしてきたにもかかわらず、人類の自然環境対策は、ペースが遅すぎて間に合いそうになかった。それは、単に技術的な問題ではなく、「根本的な価値観」が今までと同じままで、変わっていなかったからだ。
 それがコロナ感染対策によって、これまで指摘してきたような、人類が自発的には実行できなかった多くの「成果」が実現することとなった。これはもう、地球の自然界が自らの存続をかけて、人類が行動パターンをイヤでも変革せざるを得ない現象を強制的に起こしていると解釈するほかない。

 もっとも、今回のウイルスは自然発生的なものではなく、生物兵器として開発された人工的なものが漏れ出たのだという説もあり、その可能性も否定できない。しかし仮にそうであったとしても、それこそこれまでの世界の価値観の歪みがもたらした「弊害」なのだから、今の感染対策が「自浄作用」であるという意味では同じことだ。

 つまりは痴漢もセクハラも、2千数百年も営々と続いてきた、過去の社会の価値観が生み出した「弊害」だったと言えるのだ。これらと同じように、コロナ禍によって存続が難しくなっているものは、そのあり方を見直すべき時に来ているのだ。

 例えば、自粛開始以降、何度も感染クラスターの発生源となり、批判されることが多くなった「夜の街」。私自身の個人的な心情から言えば、娘時代から「夜の街」の華やいだ空気が好きであったし、そこでアルバイトしたこともあり、その存在価値をわかってもいる。ただし、感染クラスターの舞台となりがちな店の種類が、「ホストクラブ」や「キャバクラ」など、性的な誘惑をお金に換えて吸い上げる「性的搾取」の場であることは、いかにも象徴的だと感じている。つまり、この現象は、これからの世界では、お金の介在しない痴漢やセクハラも含めて、「性的搾取」が通用しなくなることを意味しているのではないか。

 その流れを、ソーシャルディスタンスとセットになった感染対策である「マスク着用」もまた、後押ししていると言えるのだ。
 というのは、私は普段、老若男女の幅広い世代に合わせた「幸せな性教育のレッスン」を提供する仕事をしているのだが、特に少年少女たちにとって、性暴力や性虐待から身を守るために、早いうちから教えておくべき身体的な情報として、「プライベート・ゾーン」という概念があるのをご存知だろうか?
 私たちの体の中で、「他人が勝手に触れてはいけない特別な場所」として設定されている場所が3つあり、それが ①性器 ②胸 ③口 なのである。
 ①②は当然のこととして、③まで含まれていることが予想外だった人も多いと思う。
 私はこの3つが設定されている理由として、「特に心とつながりやすい場所だから」と説明するようにしている。言い換えると「そこに触れることが、その人の内面に影響を及ぼす作用が強い」ということだ。
 つまり今、世界中の人が「マスク着用」によって、「全てのプライベートゾーンを守りながら社会生活を送る」ように切り替わったということになる。実際にマスクをしていると、気安く性的搾取を実行しにくくなる、一定の効果があるように感じる。

 普通はまったく違う分野のテーマとして語られている「自然破壊」と「性的搾取」は、実は同じ穴のムジナなのである。それは、どちらも古い時代から続いてきた社会の価値観の「弊害」だという意味で。

 もっと具体的に言うと、私たちの社会では、およそ2千5百年ほど前の弥生時代に始まった価値観が、今にいたるまで続いていたのだが、これからまったく違う価値観の世界が始まろうとしているということだ。実に私たちは今、人類史に残るような、数千年単位の大きな時代の変わり目の渦中にいるのである。

人類にソーシャルディスタンスが必要な本当の理由

 遠くの人とは、なかなかリアルで会えない。
 近くの人とも、簡単に近寄れない。

 このままでは「人同士の絆が薄れてしまう」との不安な見方をする人が多いけれども、私はその逆だと感じている。

 複数の人が同じ場所に集まると、そこには生身の体でこそ働き合う「同調圧力」がかかる。
 これまでの時代、会社や学校、サークル、宗教団体など、組織に所属することにつきものだったその圧力は、実は「人がリアルに集まること」によって強化されてきたのだと私は考えている。多くの企業内で問題が続出していたパワハラやセクハラも、そうした同調圧力のかかった空気の中でこそ多発してきたのだと言える。

 それが今や、ソーシャルディスタンスが確保されたお蔭で、私たちは意に染まぬ相手と強制的に同調させられずに済むようになったのだということ。だからこそ、これからは自分の意志で「触れ合いたい相手」を自覚的に選び取れるようになるのである。
 そう、これからは人間関係も、仕事をはじめとする社会活動も、「不要不急」というふるいにかけられ、各自が「自分にとって真に必要なもの・望んでいるもの」だけを残していくようになるはずだ。
 だから反対に、互いに会うべき健康な人同士が、人目を気にして会うことを遠慮しすぎる必要はないと思う。
【本当に触れ合いたい人とだけ、上質な触れ合いを体験したい】
──そういう贅沢が言えるようになった時代が、今なのだ。

 ソーシャルディスタンスは「人と人の絆を弱めている」のではない。
 むしろ「絆の価値を高めている」のである。


(※ここから、二千数百年前から現代まで続いてきた長期スパンの時代の〝弊害〟を浄化するために、ソーシャルディスタンスがなぜ役に立つのか?という核心の部分について、人類史の〝秘密の領域〟に踏み込んでお話ししようと思います。一部を袋とじにさせて頂き、少々のカンパをお願い致しますが、きっと人の世のさまざまな謎がスッキリ解けることでしょう。)

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