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自分が期待したいから勝手に期待する、ならいいんじゃないか。

なんとなく遠くにあるとおもっていたクラウドファンディングに、えいやっといくつか参加してみたら、晴れ晴れとした気持ちになった。
わたしの額など、全体からすれば微々たるものなんだけどね。
なんだろうかこの気持ち。
期待するって、悪いことばかりじゃないんだな。

ここ数年のわたしは、あらゆるもの対して、期待をしすぎないように、意識してブレーキをかけていた。
期待しなければ、がっかりしないで済むし、怒りも少なくて済む。自己嫌悪にもならない。
特に、怒りという感情がものすごく苦手で、振り回されたくなかった。

怒っている人は、なにかに執着して苦しんでいるように見える。余計なお世話だろうが、そのなにかから、解放されてほしいなぁ、と勝手に願ってしまう。

夫と口論になったことがある。夫は怒っていた。たまたま聴いていたラジオに出てきたひとの言動について。わたしは、同意できるところもあるが、そこまで怒らなくても、と思った。そのひとを擁護するわけではないんだけれど。他人の受け入れがたい言動に出会ったとき、わたしは、ああせめて自分は正しく生きよう、としか思わないと伝えたら、クールぶってるの?あなたの正義は?と責められた。(彼が酔っていたのもあるけれど)

(当然ですが、わたしも怒ります。短気です)

私の正義。確かになぞだ。

でも、自分がどう行動するか、でしか道は開けないと思うし、自分が正しいと思うことを淡々と積み重ねるのは一応意味があると思う。正しいかどうか迷ったら、相談すればよい。

それに、夫が間違っているとも思わない。そういう考え方のひともいるのだ。わたしも途中カッとなって言い返しちゃったけれど、良くなかったなあと思い「夫さんの言っていることも、わたしの言っていることも正しいと思うよ。ただわたしは責められてすごく悲しくて傷ついた」と伝えた。

誤解はといておきたいし、決めつけられるのは嫌だけれど、相手の思いまで全部自分の思うような形に整えることは、無理だと思う。
理解してほしい、も然り。
となると結局、まわりがどうであれ、自分が正しいと思うことを淡々と行って、目指したい場所に着々と近づいていくしかないなあ、と思う。

周りがざわざわすればするほど、やることはどんどんシンプルになっていくような気がする。

ええと、なんだっけ、期待するしない、の話。

思い込みが激しいので、「期待しない」を意識しすぎるあまり、期待すること自体ナンセンスだと思うようになっていた。
クラウドファンディングの一件で、期待するって気分が良いじゃん、と。自分が期待したいから勝手に期待する、ならいいんじゃないか。

自分で選んで、決めて、生き方を見つけていく世界になっていくんだろうなあ、となんとなく思う。
何に価値があって、何に対価を払うか、それがいくらなのか、それは隣のひととは違うかもしれないけれど、自分で考えて、行動するしかないんだなあと。自分が属しているなにかしらの集合体が、責任とってくれるかどうかなどわからない。

だから、自分で選んで、決められるようになる。自分が決めたことなんだから、正しいに決まっている。

何も選ばなかったら、いつまでたっても、自分は選んでもらえない。

そうか、クラウドファンディングは、自分でそこに価値があると決断できたことがうれしかったんだな。

というようなことを数日間、下書きに寝かせていたら、昨日zoomで話していた仲間もそんなようなことを言っていて、そういうタイミングなんだなと腑に落ちた。

画像は息子とのらねこ。「ゴロンしよう」と誘っては道にころがっている。飼い猫は相手をしてくれない。

目に触れられず流れていく宙ぶらりんなローカル情報を囃し立てて、自分の住む地域ってなんかいいな、誇らしいな、暮らしやすいな、と感じられる循環を作り出したいと思っています。(team OHAYASHI細川敦子)