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丁寧に暮らすってなんだ。今の私の考え。

窓から見えるニセアカシアの葉っぱがどんどん落ちていって、てっぺんの方に少し残っているくらいだ。春夏はふぁさふぁさと茂っていたのに、向こうの景色が透けて見える。

この間の「じぶんはたらき方講座」で、「丁寧に暮らす」という話が出て、それってなんだろうと改めて考えてみた。

わたしの場合は自分の住んでいる「土地」を意識するようになったとき、丁寧さが出てきたかなとおもう。丁寧に暮らすって、その土地を丁寧に扱うということでもあるのかも。
独身時代、東京で暮らしていたときは、その土地への愛着をはぐくむ、という意識を持っていなくて(東京が好き・嫌いとは別の問題)、土地≒駅みたいなかんじで、点と点でつながっていて、電車に乗ってしまえば瞬間移動だった。

大好きなひとやお店や街はあるけれど、それはどれも独立している。

東日本大震災のとき、会社がある浜松町から明大前まで歩いて帰ることになったのだけど、そういえばわたし、家まで帰る道なんて知らないや、とそのとき初めて気付いた。

家に帰る道さえ知らないで何年も暮らしていたんだなあ。

ペーパードライバーのわたしが長野へ来て、カーナビのない車でライターの仕事を始めた。とにかく取材でいろんなところへ行き、地図をみながら、道を覚えた。この道はどこにつながっているんだろ?ここに出るのか!交差点の名前もするすると覚えていった。なんだかおもしろくなってきた。仕事しながら土地への愛着を深めていった。丁寧に暮らすって、わたしにとっては、道を覚えることだったな。

だから、東京に住んでいても、丁寧に暮らすことはできるし、しているひとはたくさんいると思う。わたしはその機会がないまま、結婚して長野へやってきた。その土地のひとやお店や、暮らす人にもっと出会って、道を知って、行政サービスなんかもしっかり利用していれば、丁寧に暮らすことはできたのかもな。東京と地方のあるなしクイズで終わらしてはもったいないと思う。

ただ、佐久は道も単純で、南の八ヶ岳、北の浅間山で方向がすぐわかり、雑音もなく、空がひろくて天気が良いので、暮らしていて目や耳から入ってくる邪念がすくない。だから、分かりやすく土地を感じられるような気もする。単純で手っ取り早く、丁寧に暮らせる穴場です。

2020.11.24現在のわたしの考え。これからも変わっていくだろうな。
毎日note83日目

目に触れられず流れていく宙ぶらりんなローカル情報を囃し立てて、自分の住む地域ってなんかいいな、誇らしいな、暮らしやすいな、と感じられる循環を作り出したいと思っています。(team OHAYASHI細川敦子)