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その青い世界、赤い冒険者が歩く時 前編 1、青い世界、冒険者ギルドにて

 よくわからないタイトルはさておいて。これから私は青い世界の冒険に行くことになります。当然のことながら自分の意思ではないです、勝手に行きます。これはイメージとして掴んでおいてもらいたいのですが、私のカラーは赤です。なので、本来ならば「赤い世界の住人である」ということは何となくわかってもらえると思います。
 
 しかし、あることがきっかけでそんな赤い人は「青い世界」に行くことになりました。青い世界は赤い私から見ると、全く別世界になるので、そこを歩くということは私にとって冒険となります。もちろん、青い世界には「青い世界の住人」がいます。これ以外にも黄色い世界、緑の世界が存在します。
 
「生きている世界は同じなんだけど、住んでいる世界が違う」ということです。
 
地球という世界に鳥、魚、昆虫、微生物は住んでいますが、それぞれ生きている世界が違うのはイメージできると思います。今は4つの色の世界がとりあえず有ると、今は分からなくてもイメージしてもらえると何となくわかりやすいのかもしれません。
 
 さて、何から話していけばよいのかと少し考えたのですが、やっぱり歴史的な話。ここでいえば自分史のようなものをサラッと行きたいと思います。
 
 1989年1月17日に長野市で生まれました。あんまり勉強もできないそれでいて健康であまり病気をしない子供でした。小学生の時、詩を書いて入選したことがあるらしいですが、記憶にありません。中学に入ると野球を始めますが、全く伸びずにいじめられます。中学の時に好きだった授業は美術です。絵を描いてそれを市のホールに展示されたこともありますが、誰もそのことを知りません。勉強も全くダメで5教科500点満点中、220点がせいぜいです。
 
特に英語と数学がダメで30点台。逆に社会と理科は80点台。国語は50点台でした。
 
そんな勉強もスポーツも、見た目にも取り柄がない私は中三になると進路を決めました。道は決めていて「工業高校に行く」でした。これはなぜかというと、周りとこのまま普通科の状態で上に行ってもしょうがないと感じたからです。
 
「勉強が出来ない自分は、このままだと仕事が出来なくて死ぬ」
 
と短絡的に考えていました。今思えば極端な思考ですけど、中学生の頭の中なんてそんなもんでしょう。限られている世界で生きていましたから。それで工業高校と言っても機械、電気、土木、建築、システムの科目があってどれに行く?って話になったのですが実態が分からなかったので、体験入学に行くことになりました。よくあるやつですね。
 
そこでやった電子回路のはんだ付けという作業をやった結果、電気科に入ろうと決めました。理由は「楽しかったから、こういうのを学べるんだ」と思ったからです。
 
 今までの意味不明な数学や英語の世界から一転して現物がある電気回路やモーターという物体に心を惹かれたわけです。ですが、入ってみると実は電気という学問は数学で出来ていることに気が付きます。基礎的な部分は全部数学や数式です。
 
「これはまいった」
 
とはなりませんでした。電気の数学は回路の計算や効率を求めるものがほとんどで、空想の産物っぽい数式は無いのです。
 
つまり、実物がそこにあって、それに沿って計算をするというもの。
 
例えばの話をすれば「キルヒホッフの法則」というものがあるのですが、この回路計算には連立方程式を使います。しかし、ただ単に連立方程式を解くのではなく、自分で回路上からその要素を引っ張り出して方程式を連立させるのです。
 
聞くと難しそうですが、実回路がそこにあって、それに合わせて計算をする。そして出てきた答えが電流値や抵抗値になるので「何を求めていて、なんでこれが必要なのか?」という学問に対する姿勢の疑問を解き明かしてくれました。
 
意味不明な数式がびっくり箱から飛び出してきて、はい、これを解いて!という感じではありません。問題にきちんと意味があったのです。そんな感じで電気に出てくる数式に関しては今までと真逆で、電気の勉強はスムーズに言った結果、いくつか資格を取りました。数学で20点しか取れなかった奴が、電気工事士の資格試験は80点くらい取れたのです。
 
さて、そんな感じで高校生活を終えると大学に行くことになります。大学に行く気はそもそもなかったのですが、私が高校に入った時に始めた体操がうまくいったのです。いきなり体操?って思うかもしれませんが、野球部での思い出があまりにも良くない物だったのもあって高校に行って継続してもしょうがないだろって考えて違うことをやろうとしたのです。
 
我ながら変な選択をしましたね。
 
で、そこで教えてくれた先生が凄い人で教え方が凄かったのです。私は全くの素人でしたが2年目、3年目とインターハイ、国体に出場することが出来ました。
 
いきなり?
 
と一番驚いたのは私です。でも、私は知っていました。これは自分が優れているわけではなく、先生の指導が優れていたのだということ。それと、一番ここで感じたのは
 
 中学の野球部時代、先生はまともに私の相手をするどころか話すら聞いてくれなかったということに。高校の先生は私の話を聞いてくれて、それできちんと向き合ってくれたのです。怒られたことも当然ありますが、今思えばありがたい話でございます。
 
 そんなこんなで大学を選ぶわけですが、大学に行くことを決めたのはなんと高校2年の後半。それまで全く考えていなかったので受験勉強をしていません。というか職業科なんかセンター試験を受けるような準備をしないで、就職に有利な資格を身に着けていくようなものなので当たり前です。
 
「どうしようか」
 
と考えました。大学に行きたいというよりは、何も取り柄の無かった自分に唯一与えられた体操というものの世界にもう少し居たいという気持ちが本心だったのです。受験勉強なんかしていないので指定校推薦で大学を選ぶのですが
 
「体操が出来て、電気を勉強できる場所がいいです」
 
 という理由で私はそれができる大学を選びました。偏差値とか知名度とかどうでもよいというか、その時の時代背景的にはまだ今のようなネット文化は無くてモバゲーとかミクシィとかのSNSしかなかった時代です。ニコニコもyoutubeもまだなかった時代です。(youtubeはあったかもしれません)
 
ともかく、今のように気軽に情報を取得できる時代ではありませんでしたので、自分の身の回りに起きている出来事で自分の人生を決めるしかない時代でしたね。今はいろんな人がいろんな時間に、いろんな要素で繋がれるので魅力的かもしれませんが、迷うこともまた事実でしょう。「選択肢がないからこそ、選ぶことが出来る」そんな時代の最後の選択だったのかもしれません。
 
そして私は埼玉県にある工業大学。電気電子工学科に進学して一人暮らしを始めました。有名でも何でもない大学です。
 
 普通、そういう大学に入ると遊び惚けるみたいなこと、バイトに明け暮れることなんかをするのが一般的かもしれませんが、私は体操をやりに来て、挙句、全国大会に出たいな。とか考えていました。しかし、その熱意とは裏腹に先輩たちはどこか諦めていて、そんな全国なんか・・・という雰囲気でやる気がありませんでした。まあ、ここら辺の話をしてもしょうがないので結果としては部活動の改善をして、なんとか全日本インカレ出場2回。国体代表4回。を果たしました。
 
 その後に研究室に入って、就職となるのですが・・・まあここら辺の話は良いです。流れだけ掴んでもらえれば。そうやってなんだかんだやって、入ったのが福岡に本社を置く製鉄業のメンテナンス会社。名前を言わなくても有名な会社です。日本で鉄作ってる会社のグループ傘下企業です。福岡で1年くらいの研修を終えて、私が配属されたのは千葉県でした。
 
 長野県の工業高校からでは就職できない場所ではあります。それは会社の規模とかそういう話ではなく、場所的にということです。そういう場所に大学を卒業して勤めることになります。
 
私の歴史を振り返ってみても、まさしく赤い世界の赤い住人らしい行動と結果です。
 
卒業が2011年3月。それから社会人生活を経て、2014年7月を迎えたとき、体に異常が起き始めました。


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この物語で書かれていることは全部「ノンフィクション」です。内容は私が2014年頃に病気になり、現在まで続くまでの時間に起きた出来事です。 …

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