むしろ「動かない時間」を本気で作ったほうがいい
2022年9月28日(水)🌒3.2⚡️5:33-17:30
24:秋分 72:蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)
こんな日に海へ行けばどんなに気持ち良いかと思うが、金沢でさんざん外出してきた。今日がんばって出かけるときっと疲れるし、何かのしわ寄せが来るだろうと、ぐっと我慢している。
在宅勤務でなくなってから、自宅近くの大学構内や大きな公園すら行っていない。金木犀の香りもしてきたし、近所を歩こうではないか。
あれ以来すっかり耳鳴りと難聴はおさまったが、軽めのめまいは起こる。特に朝。今朝もまだ薬が必要だ。耳鳴りと違って、吐き気を伴い、体を動かせないのがつらい。半夏白朮天麻湯は、残り少ないので節約して飲んでいない(今のところあまり効果は感じられない)。
ずいぶんとサボっていたが、今朝久しぶりに、30分間きちんと瞑想のオンラインクラスに参加した。
丁寧に体を感じてヨガをするのもマインドフルネス、ゆっくりお茶を飲むのもマインドフルネスではあるが、やはりしっかりと座る、動かない、ということでしか得られない実感がある。
私はいつも、「何かをわかりたい」「何かを解決したい」「何かを目指したい」と思って生きている。なんとなく「これはいい思いつきだ!」と浮かぶと、そこへ向かうことが解決のように思え、一度は目の前がパーっと明るくなる。
たとえば、「これからは養生をテーマに生きよう!書こう!」「病気だったことを生かし、マインドフルネス瞑想に精を出して、人に伝える立場になろう!」などだ。一見高尚なようだが、その時はおそらく「わからなかった問題や、迷っていたことをひとつ解決した!」と思ってドーパミンが出ているのだ。
また、そのような気付きが得られないかなあと期待しながら、一人旅に出てみたり、その縮小版として、ひとりで喫茶店へ行って意識して「ぼーっと」してみたりする。
それでも、結局自分の道など見えない。いわゆるdoingモードのままで、本当の意味で自然体でもないし、現状の自分を受け入れていないというか、どちらかといえば否定している。その状態で何か新しいことをはじめても、あんまりうまくいかない(もちろん、それでも続けるのがよいのだと思う)。
人のSNSを見て、休みのたびに美術展へ行ったり、カフェへ行ったりしている人を見て、私もこうあらねばと思って焦ったりする。もう、その焦り、やめよう。いつも動いていたら見えないことがたくさんある。動いていない自分を否定するのをやめよう。本気で動かない時間は、数分でも数年でも「本気で動かない時間」なのだ。きっと。
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