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お山に帰りたい その② 八寿恵荘〜木とカミツレを吸いこむための宿

 日本の山間部には、二種類あると思う。ひとつは、辺境としての山。そしてもうひとつは、「湧き水のような」山だ。前者は畏怖の念を抱きながらありがたく身を置ける地で、後者には美しい水とこぢんまりとした里を求め、勝手に人が集まってくる。

 安曇野は、まさに湧き水のような山里。というか、美しい水をたたえたワサビの生産地なのだから、もはや土地自体が湧き水のようだ。生活のにおいがちゃんとあり、子供たちは田畑の間を走っている。そこにあるのは「触(さわ)れる自然」だ。

 安曇野から少し北、北安曇郡池田町というところは、別名「花とハーブの里」と呼ばれつつある町。メインの車道を脇に外れ、ぐんぐん山中を進んだ高い場所に、「カミツレの里」と名付けられた、4万2千坪にわたる敷地がある。

 カミツレ。言わずと知れた代表的なハーブ、カモミールの和名だ。りんごに似た香りを持ち、小さい白い菊のような花を咲かせ、その香りに安眠効果、リラックス効果があることは広く知られている。池田町の「カミツレの里」には、8千坪のカミツレ畑と、そのエキスを抽出して「華密恋(かみつれん)」ブランドの入浴剤や基礎化粧品を作る小さな工場、そして、鼻をくんくんさせ息をスーハーし続けたくなる宿、「八寿恵荘(やすえそう)」がある。

 呼吸について意識したことのあるひとは、呼吸とはまず吐くことが肝心だと知っているだろう。が、この宿ではまず、吸いたくなっても仕方がない。それくらいの香りに満ちている。

 鼻にまず入るのは実はカモミールの香りではない。カモミールの香りは、その細い葉と茎に似つかわしく、とてもほのかだ。そして私が訪れたのはお盆の真っ最中。例年5月、6月に花を咲かせるカモミールはほとんど姿がなく、あたりには10月の定植を待つ、ふくふくと耕された明るい土の色の畑が広がっていた。

 それよりも、木。宿の外壁。玄関前に積み上げられた薪。館内に足を踏み入れれば床板。天井。カウンター。テーブル。ロビーの本棚。さまざまな椅子。美しい建具。ルームキーも木。客室の名前も木。アカマツ、スギ、ヒノキ、ケヤキ、サクラ、クリ、ナラ、タモ、カエデ。八寿恵荘では9種類の木材が、用途に応じて楽しげに使われ、それぞれの色と香りを主張している。座り心地、触り心地、それはもう、靴下を履いたままでも楽しめるテクスチャー天国だ。マニア向けといってもいいほどの執拗さ(!)。とはいえ木の色はとても明るく、壁は白いので、視覚的な印象は北欧的に洗練されている。

 木の香りとは、植物が持つ自然の防虫殺菌物質のため、心地よく感じるのはヒトなど一部の動物のみらしく、本来とても強力なものだ。ヒノキの香りの入浴剤やお香が市販されているが、ちょうどあれを、滞在中ずっと嗅いでいられる装置のような館内。滞在中、私はずっと鼻をくんくんならしていた。

 そして、その中で少量だけれどぽっと効いているのが、カモミール染めの明るい黄色、少しマスタードがかったナチュラルな色合いの、枕や座布団たちだ。それは、カモミールのほのかな香りを、そのまま視覚で表現しているかのようだ。

 ほのかなカモミールは食事のテーブルにも並ぶ。食後の甘味として出された、カモミールの寒天寄せ。このホテルはほぼオーガニック認証を受けた食材を使用しているため、乳製品はなかなか使えず、デザートは毎度、スタッフの創意工夫が試されるそうだ。カモミールのハーブティにはちみつを少し入れたような淡い味と香りは、下界でぼんやり飲み食いしていると鈍ってしまうような、細やかな味覚を思い出させる。

 八寿恵荘は2015年、宿泊客の健康と環境配慮に関する厳しい基準をクリアし、アジアで初めての「BIO HOTEL」の認証を受けた。とはいえ、この宿やカミツレの里のサイトのデザインを見ると一目瞭然だけれど、雰囲気は「ゆるくて、かわいい」。宿泊客は薪割りと御釜での炊飯体験ができたり、本格ツリーハウスに登ったりできるのだが、案内してくれるスタッフは、みな山が好きそうな、気のよさそうなお兄さんお姉さんばかりだ。スタッフがみな平等な関係で働いている感じもいい。

 日暮れも日に日に早くなるお盆。林に囲まれて今年初めてのカナカナの大合唱を聞き、夜、大浴場「華密恋の湯」にひたひたと向かう。ガラガラと木の引き戸をあけて足を踏み入れると、美しい木目の脱衣ロッカーが並んでいる。そしていよいよまたガラガラとサッシを開けて浴槽をのぞき見ると、薄暗い夜の大浴場の真ん中に、カモミール=ほのか、というイメージをひっくり返す、ものすごい緑色の湯が現れた。なんだこれは!

 それは、絵の具を適当に混ぜたような、決して綺麗な色とはいえないほどの、濁った、濃い、濃い、カモミールの湯だった。香りも、いくらか薬草くささを感じる。 カミツレの里では市販用の、100%カミツレエキスの薬用入浴剤を作っているが、それを、おそらく家庭の風呂に使う規定量の数十倍はぶちこんだと思われる、どう見ても採算度外視の、ものすごい湯なのだった。宿のあちこちにほのかに現れた、可憐で繊細な白い花の大もと、そのラピュタの心臓部を見てしまったような気がした。

 視覚でも嗅覚でも圧倒する、その濃密なエキスにとぷんと全身を浸すと、それは、さながら何かの「治療」だ。これは、洗い流してはいけない。そして使い放題、カミツレエキスがっつり入りの、シャンプー、コンディショナー、ボディソープ、化粧水、クリーム、ローション、スキンバーム。常軌を逸したカミツレ愛。

 ところで私は、この宿を訪れた夏、寝苦しさから中度の不眠症を再発させ(2014年の秋に重度の不眠症に陥った経験あり)、そこから回復の途中だった。ただでさえ外泊の時は寝付くのが難しい。よりによってカモミールの宿で、眠剤を飲むなんていやだなあという思いが、出発前からずっとつきまとっていた。この宿を予約したのは不眠に悩まされる前で、カモミールの宿で眠れないとなればとても落ちこみそうなので、キャンセルも考えたほどだった。いっぽう頭の片隅では、カモミールがズバーンと効いて、一気に治りました! みたいな奇跡が起こらないだろうか、とも思っていた。

 が、意識とはやっかいなもので、いや、私の心身に自然にゆだねる器ができていないからなのか、残念ながらひと晩木の香りとカモミールの香りに浸されたくらいでは治らないのだった。私は夜通し山の虫の声を聞きながら、ほとんど朝までゴロンゴロンと、オーガニックコットンの布団の上で寝返りを打ち続けた。目に入るカミツレ染めの枕の黄色が、目に焼き付いて離れない。

 なんとか最強の薬を飲んで明け方2時間ほど眠り、そのまま朝日の中で目覚めると、不思議なほどすっきりしている自分がいた。ラウンジで飲んだ朝のコーヒーの美味しかったこと。

 「八寿恵荘」は、週末に限り、大浴場のみの日帰り利用ができる。町の人々は、この濃縮還元のような湯を求めて、わらわらと集まってくるのだなあと思った。いや少々遠くたって来る価値はあるだろう。私だって近くに住んでいたら毎週来たい。そして湯治をしたい。そしていつか、カミツレ染めの枕で、寝落ちをしたい。カモミールの宿でまるで眠れなかったにもかかわらず、この宿の木の色のような、カミツレ染めのような明るい記憶ばかりが残った。

 ちなみに、「八寿恵荘」のすぐ隣には、カモミールエキスを使用した「華密恋(かみつれん)」ブランドの製品工場がある。宿泊者は工場見学ができるのだが、工場という語感からはおよそ似つかわしくない、香り良く白く清潔感にあふれ、何より「静かな」工場だった。どちらかといえば実験室。こんなところにも、親しげで優しげな宿の、心臓部を見る思い。八寿恵荘はこんこんと湧き出すカミツレエキスの上に鎮座しているのだ。きっと。

「八寿恵荘」は1泊2食つき15000円前後だが、カモミールの花が咲く初夏は少し値段が上がる。全7室だが、広いダイニングと浴場、ハンモックの吊るされた「ふれあいの間」もあり、こぢんまりとした感じはない。元は会社の保養所だったそう。


デザートとして出された、カモミールの寒天寄せ。夕食は宿泊者も加わって釜で炊いたお米と、自社菜園の野菜を中心に。調味料もすべて化学調味料無添加 /安曇野に来たら「CHILLOUT STYLE COFFEE」へ。高原風のドームのような屋根の建物。中もそのままの形が生かされている。青々とした田んぼを眺めながらチルアウト /信州産小麦や安曇野産そば粉を使ったスコーン、焼き菓子の店「TAKENOSU BAKE」。こちらものどかな田園地帯の中に現れる一軒家ショップ /自然のエキスを抽出するにはアルコールが使用されるため、添加物を使用しないにせよ、肌に合う、合わないは生じる。私はアルコールにはかなり弱いが、「華密恋」のスキンバームは問題なく毎日愛用できている。肌のみならず、ヘアワックスとして使うのもおすすめ。カミツレエキス20%スキンバーム(25g)2160円(公式通販)


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