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介護生活:2.早起き

「介護生活:1.突然に」に、想像以上にたくさんの人に訪れてもらって嬉しいです。ありがとうございます。

noteを始めて、今日でまるまる2週間です。あっという間でした。

もっとゆっくりと書くつもりでいました。
読者数人という予想に反して、かなり多くの人に読んでいただいているのです。それで、かなり焦って原稿を書いているのが、正直なところです。

当初の目的であった「身辺雑記」は手つかずであり、また、「介護生活」もなかなか書けないままに過ごしています。

まぁ、正直な話、現実がしんどくて、それを直視して書くということが出来ない状態です。

どうでもいいことですが、今日、7月6日が、70歳の最終日です。
あと4時間ほどで71歳になります。何とか70歳のうちにこの原稿を書き上げてアップしたいと思っています。

過去のメモや写真を探して書く紀行文を書く時間的余裕はないので、本日は今の感想と記憶で何とかなる私に起きた変化について書きたいと思います。

「早起き」についてです。

早起き

介護生活が始まるまでは、本当に自由気ままな生活をしていました。夜はなかなか眠れないタイプで、朝方に寝て、お昼前に慌てて起きて大学へという生活でした。

学生さんから「先生なんで大学の先生になろうと思ったのですか」と聞かれ、大真面目に「毎日働くことは性格的に絶対に無理だし、通勤電車が耐えられない。何よりも朝起きれないから」と答えたら、ちょっと引かれてしまいました。幻滅されました。

でもそのくらい朝起きるのは、苦手なのです。
二度寝、三度寝をするタイプです。

そういう私ですが、かみさんが倒れてからは、一日も欠かさず、朝の4時50分には起きています。
彼女が早起きだったからです。
彼女の生活時間に合わせようと決めたからです。

最初の頃は、全然寝つけなかったので、睡眠導入剤に頼りました。
一錠では眠れず、二錠飲むこともありました。

睡眠導入剤は、50代でひどいうつになり、それからの縁です。
鬱には10年近く苦しめられました。

完治ではなく寛解かんかいの状態だと思うのですが、何とか生活が出来るようになっています。

ということで、抗鬱剤や抗不安薬とは何とか縁は切れましたが、睡眠導入剤だけはまだ手放すことが出来ません。

習慣とは恐ろしいもので、今では目覚ましなしに起きています。
午前4時頃に目が覚めて、ストレッチをして身体をほぐしたりしていることもあるほどです。

早起きの記憶 1

毎朝、5時前には起きて、朝食の準備をするのですが、そういう生活を1ヶ月、2ヶ月と続けていくうちに、子ども時代の記憶がよみがえってきました。

実は、この早起きの生活は初めてではなかったことを思い出したのです。

60年以上前の話です。

小学校の3年生の頃から、毎朝、まだ太陽が昇る前、真っ暗の時に起こされて、父親と兄の3人で田のあぜ草刈くさかりに行っていました。途中で夜がしらみ始め、帰りの6時頃にはすっかり太陽が昇っているという生活を送っていたのを思い出しました。

日本の農業の機械化は、1960年代です。
1964年の東京オリンピックが、日本社会が大きく変わる転機になったと感じています。高度成長が始まり、地方から都会への出稼ぎが始まりました。

東京オリンピックは、私が中学1年生の時です。その頃はもう草刈りには行かなくなったという記憶があります。
確かではありませんが・・・。

というのは、それまでは、馬や牛が、耕運機やトラクターや軽トラの代わりだったのです。馬が3頭いて、それは農耕馬のうこうばでした。運搬は当然のように馬車でした。耕作も馬を使っていました。

田の畦の草刈りは、馬の餌のためです。
馬が耕運機やトラクターに取って代わられるようになると、いつの間にか馬はいなくなりました。当然のように朝早く起きての草刈りもなくなりました。

草刈りよりも、早朝に起こされるのが辛かったという記憶があります。

早起きの記憶 2

早起きをするようになって、かみさんといろんな昔話をします。その中で出てきたのが、大学時代の早起きです。

始発電車に乗ってバイト先に向かいました。当然のことですが、毎朝、午前4時半頃には起きていたように思います。

今は豊洲に移転した、築地市場の青果の仲買なかがいでバイトをしていました。肉体労働でした。

働いていたのは、トマト、セロリ、レタスなどの西洋野菜を中心に扱っていた仲買のお店です。

仲買は朝早いのです。

私たちバイトの仕事は、仲買人さんが市場で競り落とした品物をお店に運んで来る仕事と、それから街の八百屋さんがお店で買い付けた商品を車に運ぶことでした。

純粋に肉体労働です。20kgや30kgの荷物を運ぶのが普通でした。

お客さん(街の八百屋さん)もお昼頃にはもう来なくなります。
一段落ついて、帰宅です。
というか、そのまま大学に行っていました。
午前中の授業は全休です。一度も出れませんでした。

午後の授業にそのまま出て、そして、その後、帰宅して着替えてから家庭教師と塾講師をしていました。毎晩帰宅は、10時過ぎでした。

なぜバイトを

私は、九州は熊本の片田舎で生まれ育ちました。
昭和26年、1951年生まれです。戦後すぐで、日本がまだ貧しい時代でした。

だから、中学を卒業して、そのまま働く人がたくさんいました。集団就職で大阪名古屋に行く友だちを、何度も人吉駅まで見送りに行きました。
当時はまだ集団就職列車というのがあったのだと思います。

従兄弟いとこ(従姉妹)も、中卒で働いている人がほとんどでした。

そんな時代に私は浪人して大学に進学しました。
親戚では私が大学進学の第一号です。

我が家も十分に貧しい家でした。その上、両親とも小学校しか出ていませんでした。しかし、進学には賛成してくれました。ただ「学費も生活費も自分でまかなってくれ」と言われました。

出稼でかせぎもしないで、何とか農業だけで踏ん張っていた父親や兄の姿を見ていたので、当然だなと思って了承しました。

大学に入学したのは、1971年です。さすがに私のような苦学生は稀でした。

終わりに

介護生活とともに始まった早起き、なぜちゃんと続くんだろうと不思議に思っていました。かみさんによれば、三度目だからだそうです。60年前と50年前にやっていたから身体が動くのだそうです。

ということで、昔話をしてしまいました。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。


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