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「〇〇しなあかん」という呪縛

私は高校生の頃、自分や人の性格がどのように形成されていくのかに興味を持ち、大学で臨床心理を専攻し、認定心理士を取った。

エゴグラムという性格診断
エゴグラムとは、人の心を5つに分類し、その5つの自我状態が放出する心的エネルギーの高さをグラフにしたもののことである。      
◎5つの分類◎               CP(支配性)
厳しい心。自分の価値観を正しいものと信じて譲らず、責任を持って行動し、他人に批判的である[1]。この部分が低いと、怠惰な性格になる。
NP(寛容性)
優しい心。愛情深く、他人を思いやって行動し、世話好きで保護的で親切である[1]。この部分が低いと、冷淡な性格になる。
A(論理性)
論理的な心。現実を重視しており、知的で計算力が高く、聡明で頭脳明晰で合理的である[1]。この部分が低いと、非合理的な性格になる。
FC(奔放性)
自由奔放な心。明るく好奇心旺盛でユーモアがあり、自我中心性で自己中心的である[1]。この部分が低いと、閉鎖的で暗い性格になる。
AC(順応性)
協調性的な心。他人からの評価を気にし、言いたいことを言わずに我慢してしまい、従順で遠慮がちである[1]。この部分が低いと、マイペースな性格になる。                 (Wikipedia)

エゴグラムとは、何問もの質問に答えることで、自分の性格を5つの要素に振り分け、どのように働いているかを可視化することができるものである。

高校生の頃にやってみた

本を読んでエゴグラムの存在を知り、診断してみればCPが20/20という異常な高さを示し、逆にFCは半分以下でかなり低く、自分の生きづらさを考えるきっかけになった。

今でこそだいぶマシになったが、私は待ち合わせや約束の時間に数分でも遅れそうになると過呼吸になりそうになったり脂汗をかくような異常に不安な状態に陥るのが当時頻繁にありとてもしんどかった。

「時間は守らなければならない」という強い思いが頭の中にあり、それを守れない人間は人として終わっていると言う刷り込みがあった。

なぜそのような思いが頭から離れなかったのか。

娘を育てながら私の両親が孫に対して接する時の様子を見ていて明確にわかったことがある。

日常的に聞いていた「〇〇しなあかん」

娘が絵を描こうと画用紙を広げていたのだが、ほんの少し紙が折れていたのを見て父が「ちゃんと伸ばさなあかん」と言った。

伸ばさなあかん?

伸ばさなくていいんじゃない?

紙が折れているからと言って何かまずいことがあるのか?

娘が絵を描くことに紙が折れてるだけで、本当に何かあかんことがある?

と言う思いが湧いてきた。まだ2歳だし、紙を広げていてうまく広げられないことなんてあるのでは。私なら「これ伸ばした方がたくさん描けるよ」とか「描きやすいよ」とかそう言う言葉をかける。

そして次は娘が粘土遊びをしていた時のこと。

カラフルな粘土を持っているのだが、まだ色を混ぜて遊ばさずに一つ一つを出してはしまって遊んでいると伝えてたら、娘が次の色を欲しがった時に「これ片付けなあかんで」と母が言った。 

娘は別に片付けるのが嫌だとか一言も言っていなかったし、私と遊んでいる時も「これないない(片付け)してから出そっか」というと素直に聞き入れて片付けてくれるので、「〇〇せなあかん」は使うことがない。

積み重なるとどうなるのか

1日の中で何度もこの「〇〇せなあかん」を聞いて育った私は、自分の思っている事や約束がほんの少しできなかったりだけでもう終わりのような絶望感を味わう事になった。

0か100か、そんな生活はとても苦しい。

そして他人への評価にも批判的になりやすい。

本当にあかんと言う言葉を使う場面として、身に危険が及ぶ時や人に迷惑をかけるようなことに関しては「〇〇したらあかんよ」って伝えるつもりだが、それ以外のどうでもいい事では使うべきでないと私は思う。

そして、あかんというならその理由もしっかり伝えるべきだ。

理由が曖昧なものに対して「あかんものはあかん」と言われても子ども自身納得がいかないだろうし、大人もその理由をちゃんと話せないのに叱るのは何か違う。

私は娘にあかんの呪縛で苦しい思いをして欲しくない。

これからも娘には「あかん」と言う言葉は多用せず、きちんと理由を説明して物事を教えていきたい。


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