見出し画像

生まれる家は選べないが、自分で選んだ家族は作れる

小さい頃、自分の家族は他にいると思いたかった時期があった。父と姉の相性が悪く、姉のストレスが全て私に向かっていた頃のことである。

幼少期の家族の中での役割

私は自分の家族(実父母と姉)といると、もちろん楽しいこともあるが家族の機嫌が悪くならないようにどこかでずっと気を張っている部分があった。

父は時間に厳しく、外出の時などはさ予定の時刻より早く用意ができていないと機嫌が悪くなり、機嫌が悪いと運転も荒くなるようなタイプで毎度少し間違えば険悪なムードになった。

対する姉はあまり時間を気にしないタイプなので、時間に遅れてもさほど悪びれることなく、その態度が余計父の気分を逆撫でしていたようで、よく喧嘩になっていた。母は父の怒りをおさめるどころかたいてい説得しようとしては火に油を注いでしまうので、おさめられるのは私しかいない、と内心覚悟を決めていた。

家族から見た私と、本当の私​

家族からは何も考えていないただの能天気な子だと思われていただろう。

そう思われるようにしていたのは私自身だ。

何も考えていないふりをすれば、父の機嫌を取ることも難しくなかった。遅刻する姉が来るまでの間、なるべく父が楽しい話をできるように話題をふり、遊んでもらっているようにふるまった。

私の本質を見抜いていたのは祖母ただ一人。

「あの子は何も考えていないように見えて、よくよく考えているんだよ」と姉に話していたと聞いたのは、私が13歳の時に祖母が亡くなった何年も後のことだった。

日々起こる父と姉の激しい衝突​

姉が反抗期の時、父と頻繁に揉めていて、喧嘩をすると流血していることなども多々あった。

喧嘩が始まると物が飛んできたりするので、私は誰もいない部屋に逃げていた。ある時ようやく喧嘩が収まったと思い戻ると、物は散乱し、姉は洗面所で鼻血を流し、私のお気に入りだった筆箱には血がついていた。

帰る時間が遅い、アルバイト先の選択、ピアスをあける年齢、髪を染める年齢など事あるごとに揉めていた。

そして姉のストレスの吐き口はより小さな私に向かっていた。

落ち着ける場所を探す日々​

私は小中と勉強が得意でなかったため、必死で勉強して母や姉からは何でこんなに勉強できないのかと言われていた。勉強のできない自分がたまらなく嫌いで、家でも学校でもいつも焦燥感に駆られていた。

近所の子からは泣き虫だったのと頭がでかいからという理由で何人の子からは嫌がらせをされていて、一緒に遊ぼうとしてもおにごっこでは鬼にばかりさせられていた。

幼馴染の男の子がいつも味方でいてくれたのは私にとって救いだった。

嫌がらせをされて泣いて帰ってきても、母や姉には全く聞き入れてもらえず、姉からは「あんたがどうにかしな」、母からは「神様は見ているから」と言われ、全く何の解決にもならなかった。

学校でも、家でも、近所でも、心を落ち着ける場所がなかった。

自分の家族​

そんな私も結婚をして今や娘を育てる母となった。

今は私がご機嫌を取らなければいけない人はいない。物が飛んでくることもない。自分の進路にどうこういう人もいない、ましてやわざわざ嫌がらせをしてくる人もいないので、私は私のしたいことを自分で決めることができる。

娘の出産の時には初めての子育てが不安で里帰りしたが、結果的に母はキャパオーバーでヒステリーを起こしこのままだとやばいことになると感じた私は、予定よりもだいぶ早く急遽里帰りを切り上げて帰った。

私は5年間結婚して家を出て忘れていたが、また里帰りをして家族に気を遣って神経をすり減らす日々を思い出し、心底嫌になった。

次の子が生まれる時はもう里帰りはしないと決めている。

今私が一番大事にしたいのは私が選んで築いた家族であり、私が一番落ち着くのは夫と娘という家族といる時だ。

生まれ育つ場所は自分では選べないが、自分が選んだ家族は死ぬまで大事にしたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?