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言葉が心に沁みる

トランプ前アメリカ大統領が秋の大統領選挙に向けた演説中に銃撃され負傷するといった衝撃的なニュースが世界を震撼させました。集会に参加していた1人が死亡、2人が重傷というとても悲惨な事件となり、バイデン大統領も「このような政治的な暴力は前代未聞で不適切だ」と発言をしました。2年前、安部晋三元内閣総理大臣が選挙の応援演説中に銃撃されて命を落とすといった、民主主義の根幹たる選挙を暴力で否定するといった蛮行がこの日本でもありました。その後、現職の岸田総理も選挙応援で訪れた先で爆発物を投げつけられるといった事件も起きています。いずれの場合も、選挙に関連しているというのが共通点で、私たち人類が長い歴史の中で、物事の解決策を暴力によらずに行うといったことから始まった民主主義を真っ向から否定する行動に強い憤りを感じます。

ここ最近の日本では選挙期間中に妨害行為を働くといった行動や自身の売名行為のために愚行を働くといった行動が目につき「民主主義の限界」や「民主主義の終焉」などといった言葉も耳にするようになりました。確かに技術革新などに個人が意見を発信することが容易になり、以前より多様性が求められる社会となりました。それに伴い、民主主義が確立され始めた頃とはだいぶ社会の様子や個人の価値観が変わってきています。その急激な変化に現在の法改正が追い付かず社会の歪みになっているように感じます。その歪みから生じる不平や不満が、残念なことに今回の銃撃事件のような暴力といった形で表現されてしまったのではないでしょうか。仮にそうだとしても、人類が長い歴史の中で暴力に頼らず解決する方法として生み出した「民主主義」を暴力的なものに戻してよいわけではありません。暴力的な方法を絶対的に否定することを前提として、昨今の政治混乱について考えてみたいと思います。

さて、ここ最近の政治に違和感を抱いている方はとても多いと思われます。私もその一人で、10~20代の若者ではなく40前後の同年代にその片鱗が強く見られているように感じている。直近の東京都知事選挙における奇妙な選挙活動や、果たしてそれは政治活動なのだろうかといった疑問を持たざるを得ない愚行を働いている年代を見てみると40代前後が多いのである。今の日本における40代は、バブル崩壊を幼少期に経験し、自身の就職では氷河期と呼ばれた非正規雇用が多い世代です。政治の世界においては自民党が下野をして、民主党政権が発足したにも関わらず、度重なる不祥事により直ぐにまた政権交代と何かと不安定な時代を生きてきた世代です。国会中継を見れば野党による誹謗中傷、マスコミでは政策ではない分野での政権批判、SNSの普及などによって切り抜き動画による本心の伝わりにくい配信など、一体何が正しいのか判断がつかなくなっているようにも感じます。相手の誹謗中傷をしたり、攻撃をしたりするのが政治活動であるかのように勘違いをしている世代なのではないかと思われます。

今回のトランプ氏の銃撃事件の犯人は20歳の若者でした。本来なら社会で活躍すべき40代が歪んだ思想を持ち、その下の世代まで影響しているのではないでしょうか。事件を受けてアメリカ大統領選挙ではバイデン陣営がトランプ批判の広告を取り下げているという報道がありました。相手の批判する広告などからその意図をはき違え攻撃的な行動に出てしまわないようにといった配慮からだそうです。安倍元総理の事件においても、当時は安部元総理を批判する(政治的な内容ではなく、人格否定のような信じられないものも…)デモがSNSなどで拡散をされていたと記憶しています。そういった配信を行った人たちの本心は分かりませんが、それを見た人が暴力的な行動に出て悲劇を生みだしたのではないかと思います。

人が発する言葉は受け手の支えとなる場合もありますが、時には人を変容させる力も持っています。誰もが情報を簡単に発信できる時代、発信力のある人たちだけに限らず私たちは、本心は伝わるだろうか、誤解は与えないだろうか、相手にどういう風に言葉が沁みていくかをしっかりと考えなくてはいけないのかもしれません。

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