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あの頃の匂いがする(3) 短編 連載 町下 樹(マチシタ ナオキ)

 ――「ねえ、初めてゆっくり話したのも夏の終わりごろだったよね。今よりは暑かったけどさ」と渚は言った――

 鈴虫の声が聞こえるとても涼しい夜だった。僕は『赤と黒』を読んでいた。一休みしてページに手をかけたところで『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』のギターリフが聞こえた。渚からの電話だった。しばらく悩んだが本を閉じて携帯電話を取った。
「こんばんは。邪魔したかな?」と渚は言った。
「どうせ大学生の夏休みだ。なにもすることなんてないよ」と僕は言った。
「それはよかった。それで、もうこっちには帰ってきたの?」
「帰ってきてる」
「じゃあ明後日の塾には来るんだ」
「うん」
「そう。じゃあ明日会えるんだね」
「うん。また明日。おやすみ」
「ちょっと待ってよ」と渚は言った。「そんなに忙しいわけ? さっき何もしてないって言ったよね」
「前も言ったけれど、教師と生徒がこうやって連絡を取るのはかなり良くないんだよ」と僕は表紙のジュリアンを見ながら言った。
「いいじゃない。どうせアルバイトでしょう」
「思考警察にばれたら一〇一号室送りだ」
「なにそれ――」
 僕は一方的に電話を切った。次に携帯電話をマナーモードにしておいた。僕はライムを絞ったジンを一口飲んで、続きのページを開いた。

 まだ日は長く、夕方の時刻になっても日は沈まず赤さを増していた。僕は授業開始十分前に自分の席に着いた。僕の席の隣には渚が既に座っていた。個別指導なので他に僕が教える生徒はいなかった。窓は開けられていたが風が通らず暑かった。前の席の中年教師が汗ばんだ額をハンカチで押さえていた。渚の高校の夏服は白く、背中の部分が汗で透けていた。僕が近づくと渚はファイルで仰ぐのをやめ、こちらを向いた。前髪が鉄格子に割られた月光みたいに分かれて額に張り付いていた。
「久しぶり、先生。ちょっと痩せたんじゃない?」と渚は言った。
 僕はそれに答えず自分の席に腰を下ろした。
「宿題はしっかりやったのか?」と僕は言った。
「そんなの夏らしさを感じるただのしるしだよ。やらない方が夏らしいし、学生らしいよ。大人になったら何もかもさぼれなくなっちゃうんだから」と渚は答えた。
「来年は受験だろう?」
「いいのよ。高校卒業したら涼しいヨーロッパに行くんだ」
 僕は何か言おうとしたが授業開始のチャイムに暑さのせいでぼんやりと浮かんでいた言葉は安物の花火みたいにすぐに消えてしまった。
 授業が終わり僕は渚と駅まで一緒に歩いていた。会社の決まりで最後の授業が終わると先生は生徒を帰る場所まで送らなくてはならなかった。ほとんどの生徒は親に迎えに来てもらっていたが、渚はいつも電車で帰るので僕は駅まで送っていかなくてはならなかった。給料はコマ数で決まっているためどこまで送ろうがアルバイト代は変わらなかった。僕はこの時間にうんざりしていたが渚はいつも楽しそうだった。
 まだ外は夏の匂いがした。街灯は明滅して、蝉の死骸を照らしていた。どこからか風鈴の音が聞こえた。風が少し冷たかった。
「ねえ、初めてゆっくり話したのも夏の終わりごろだったよね。今よりは暑かったけどさ」と渚は言った。
 
僕が渚の担当をすることになったのは彼女が高校二年のころだった。成績が芳しくないので何とかしてほしい――それが事前調査で聞かされた父親の言葉だった。渚は初めのうちほとんど喋らなかった。ひたすらテキストと向き合って、こちらが説明しても要領を得ない返事ばかりだった。何もしないわけにはいかないので僕は一人で仮定法について喋り続けていた。三回ほどそれが続き、四回目に分詞構文について説明している時に『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』のギターリフが教室に響いた。携帯電話の電源を切り忘れていたのだった。すぐに僕は電源を切り、他の人たちに謝った。椅子に座り直し、ため息をついたとき渚がこちらを向いているのに気が付いた。
「それ、ニルヴァーナでしょ」と渚は言った。
「ロックはよく聞くの?」僕はいささかびっくりしながらそう言った。
「聞く。イーグルスとか、ラモーンズとか、――」
「気が合いそうだ」と僕は口をはさんだ。
「ブラーとかね」と彼女は言った。
「さっきのは嘘だ」僕はそう言って、『ワンダーウォール』をハミングした。渚は初めてくすくすと笑った。
「今日は電車で来たの」と渚は言った。
「それじゃあ駅まで送ろう」と僕は言った。
「遠いわよ」と彼女は言った。
「規則だからさ」と僕は言った。
 外では蝉が真上の木にとまり、耳を聾するほどの声で鳴いていた。扇子を扇ぎながらサラリーマンが僕らの前を通り過ぎていった。星は綺麗に光り、月は欠けていたが十分に僕らを照らしていた。僕らはオアシスとブラーどちらが恰好いいか、とかラモーンズはどこまでいってもラモーンズなんだ、などロックについて様々なことを話した。駅に着くと不思議だがある面では自然な、夜の隙間に溶け込むような沈黙が訪れた。
「また来週ね」と渚はしばらくしてから言った。
 僕は手を上げて彼女が改札に入るまで見送った。

「――ねえ、聞いてる?」と渚は言った。
「それで、小人の島にたどり着いてどうなったの」
「もういいよ」
「すまない。考え事をしていたんだ」
「それで、もう地元には帰らないの?」
「たぶん」と僕は言った。
「たぶん」と渚は繰り返した。「先生ってかなりいい加減だよね。授業の時はあんなにしっかり教えてくれるのにさ」
「仕事だからだよ」
「じゃあ仕事とプライベートを分けてさ、私と遊ぼうよ。明日は何か予定あるの?」と渚は言った。
「そんな先のことは分からない」と僕は言った。
渚はふうっ、とため息をついた。「大学生の夏休みは暇なんでしょ。予定なんかないくせに。だいいち昨日は何してたのよ?」
「そんな昔のことは覚えてない」
 そう言ったところで駅に着いた。渚はまたため息をついた。僕はまた来週、と言った。蝉の声と電車の行き先を告げるアナウンスだけが聞こえた。渚は改札を通って見えなくなるまで、一度もこちらを振り向かなかった。

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