掘り出してきた卒業論文
#わたしの卒業制作
というハッシュタグを見つけたので、自身の卒業論文を掘り出してみました。
タイトルは「身体への執着」
一丁前だな。。。と笑いたい気持ちと、私のダンスの想いはこの一言に詰まっている!という自身とが重なり合います。
正直、大学生はもっとちゃんとやればよかったと思っています。
けれど大学に行かなければよかったとは、全く思わない。
ダンサーとして活動していますが、私はダンスの専門的な大学生にはならず、映像身体学科というところを受験。
1、2年生のうちはキャンパスライフを楽しんでしまって「あ、筆箱忘れたからテスト受けられないや」みたいなのがいけてるみたいなそういう時期。。。
小中高時代は、習い事一筋で所謂「スーパーキッズ」みたいな生活だったので(学校から稽古場まで車で送り迎えしてもらい、車の中で着替え、食事、睡眠もし、ベッドでは柔軟をしながら寝て、食べたものと体重は全て記録していた。。。笑)この生活も本当に楽しかった。
3年生からはもうカンパニーOrganWorksに所属していたのでそちらに夢中で夢中で。
ダンスサークルにも入っていました。そこで様々な作品とダンサーにも出会った。
そして唯一と言ってもいいくらいこの4年生の卒業論文を書くときに、映像身体学科の授業の面白さ、物事のつながりを感じました。
とにかく受けている授業全てに共通点が見出せて、そしてそれがダンスにつながっていることが面白かった。
恥ずかしながら、卒業論文の一部を。
ダンスにおいて「再現性」はどういった役割にあるだろうか。絵画と写真の関係は、(背景や発展の仕方はまったく異なるが)どこかダンスと演劇という関係に似ているのかもしれない。1つ目の題目でも述べたが、境目を気にする必要などなく、ダンスに言葉が出てくるのも演劇に身体表現が登場するのも、それは不自然なことでも恐るべきものでもないが、それぞれの担うもの、執着すべきものということがある。ダンスはどういった点を読み解く要素としているのか。絵画でいわば象徴を用いているところから筆跡を読むべき要素になっていったように、ダンスでは直接的もしくは(適切な表現ではないが、)パントマイム的要素を含んだりする面から全く違う方法を用いてイメージ世界を表現しようとこころみているのである。「再現」するというアプローチもダンスにおいては様々である。絵画とは大きくは時間の流れを伴うかどうかという点で差がある。また、ダンスは残された痕跡や結果のみが見る対象物にはならない。ところが、絵画が19世紀に味わった歯がゆさをダンスもどこかに持っているのではないだろうか。「再現」することを目的としなくなった絵画には鑑賞者・観客に余地や創造させることを作った。人々はそういったものに惹かれるのかもしれない。絵画が光や大気を見えるものとして残すことに挑んだように、イメージや見えないものを身体で捉えようという束縛をともなって提示しようとしている。クレーは「芸術とは見たものを表現するのではなく、見えないものを見えるようにすることである」と語った。19世紀以前の宗教画であっても19世紀以降であっても、それが実際の現実世界と存在するものを描いた絵画で あっても、画家という手を通して「見えるもの」に画家たちはしている。言葉にできない気持ちなどとよく言うがそれをダンス・ダンス的身体は可能にするとも限らないし、ダ ンスにおける「見えるもの」を言葉では再構築できないかもしれない。ダンスはなにを見せているのか。身体の残す軌跡はどこまでくっきりと知覚されうるのだろう。身体を取り巻くものが身体とともにダンスとなるときダンスにおける「見えるもの」は何か読み解こうとさせるものを生み出すのではないだろうか。ダンスはなにかの決まりごとを持って解釈するだけでなく、無視された時系列の中にでも、観客それぞれに読み解こうとさせるエッセンスをちりばめることが必要なのである。それにはダンサーと作り手が「見えないもの」へ近づこうとしそれに対してクリアーである必要がある。身体を読み解くもっとも根源的なものとすればやはりどうしてもダンスにおいて身体は訓練されたものでなければならないだろう。
文章が支離滅裂な部分がありますが。。。
これは絵画論の授業を受けて、書いた部分。ダンスでも同じこと言えるな。とか、絵画は形残るものだもん、羨ましいなとか。
とにかくこの論文を書いているときはなんでもダンスに置き換えて考えたり、比較して考えたりする時間でした。
たまにこうやって卒業論文を見返すのは恥ずかしくも、楽しい。
自分の文章を他人事のように分析したり、忘れかけてた大切なところに立ち返らせてくれたり。
今また考える時間が増えている。
考えを持つことの重要性を日々感じる。
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