かんたんな現代思想の結論、ニーチェ、ソシュール、ヒルベルト

かんたんな現代思想の結論、ニーチェ、ソシュール、ヒルベルト

・結論から

 現代哲学はニーチェ、ヒルベルト、ソシュールで出来上がっている。

 つまり19世紀末、20世紀頭には現代哲学は結論が出ている。

 現代思想はその後の20世紀の展開は注釈、敷衍、解説、解釈のようなものだ。

 デリダは現代哲学を分かり易くまとめようとした人で参考書を書いてるようなものだ。

・象徴

 汝の神を象るなかれ、というのは聖書の十戒だ。

 偶像崇拝禁止で有名でのちのヨーロッパの新教徒革命では聖像だけでなく教会も祭壇もステンドガラスも破壊され殆ど残ってない地域がたくさんある。

 のちのユダヤ教ではこれを真面目に守ったので神様の名前が分からなくなってしまった。

 神の名をみだりに唱えてはならないからだ。

 神聖4文字YHWHとして伝わったが実際の読み方は分からなくなってしまった。

 最近は知らないが昔のサウジアラビアでは写真でも人形でも持ち込めなかった。

 象ったものは国に入れなかった。

 「象徴」「象る」ことへの忌避である。

 象られたものは象徴であってそのものではない。

・象徴と言葉

 現代哲学は象徴の根源的な分析を行った。

 また象徴の利用を飛躍的に発展させた。

 この立役者はヒルベルトやソシュールで本質的なところは1900年を挟んだ時期に終わっている。

 後者はやや突っ込み不足だったが20世紀の構造主義の研究はこの系譜とされる。

 象徴の代表は言葉だ。

 言葉は音声言語と文字言語がある。

 文字の並びが言葉だ。

 文字という記号を一列に並べたものが言葉だ。

 現代哲学の特徴は言葉の世界を重視し一つの独立したものとした点だ。

それまでの哲学はどういおうと言葉を物質からなる現実と抽象からなる想像より下位と見た。

・言葉

 言葉の周辺をよく考えてみよう。

 人間は言葉を使うまでは人間でなかったのか。

 原始人や類人猿やある種の生物は言葉を使えるのか。

 赤ちゃんや認知症や脳機能や精神の問題で言葉をつかえない人もいる。

 言葉を使えると異常で使えないと異常で障害で疾患や高次脳機能に問題があるのか。

 言葉を使えない人間は普通や正常ではないのか。

 そういったことは現代哲学で決着がついている。

・象徴、現実、想像

 ラカンという現代思想家が現代哲学を見る3つの観点を提唱した。

 世界は現実界、想像界、象徴界からなる。

 この3つは重なる場合もある。

 どれか2つが重なる場合もあるし3つとも重なる場合もある。

 現代哲学より前の哲学は現実界と想像界の関係の研究だった。

 現実とはそのものずばりの現実だ。

 物質からなる。

 物理や自然科学で扱うような領域だ。

 知覚や観測できるものからなる。

 プラトンはイデアの影と言いデカルトは延長と言いカントは物自体と言った。

 想像は頭の中のイメージだ。

 哲学の中の観念論とはこの領域の研究だ。

 空想と言ってもよいが大乗仏教の「空」とはちょっと違う

 大乗仏教の空とは現実界や想像界、そして象徴界が重なる領域の話がメインとなる。

 象徴界は象徴と言ってもいいが象徴の代表選手として言葉、言語を考える。

・言葉についての結論

 象徴は象徴だ。

 何かそのものを正確に表すものではない。

 しかし何かを表すものではある。

 象徴表現は象徴表現自体ではある。

 世の中には同じものはない。

 何かの記号はその記号以外は表さない。

 しかしそれが記号自体ではない何かを表す、というのが自明とされてきたのが言葉の世界だ。

 記号列が言葉なので言葉も記号である。

 それは歴史の世界でもあり哲学の世界でもあった。

 言葉に関する結論としては以下のようなことが言える。

 「我々は言葉を使って何かを表せると思っている」

 「言葉が何も表せないということはない」

 「言葉は何かを表す能力がある」

 「人間には言葉を使って何かを表す能力がある」

 「何かは言葉で表すことが出来る、と我々は思っている」

 「何かを言葉で表す能力があるということを人間は前提とされている」

 「言葉の表すものは不変でも普遍でも唯一でも同一でも単一でもない」

 「我々は言葉が普遍で不変、唯一、単一、同一なものを表せると誤解してきたし今でも誤解しがちだ」

 「言葉は不変、普遍、唯一、単一、同一なものを表せないのに何かを表せるというのは言葉の持つ素晴らしい特性である」

 「言葉を作った人間は素晴らしい」

 「何かを言葉で表現できる能力を人間は持つことがある」

 「いずれかの時期に人間は言葉を作った」

 「言葉がつかえなくても全然おかしい事ではない」

 「むしろ言葉を使えることが以上かもしれない」

 「言葉が普遍、不変、唯一、単一、同一なものを表していると思っているのが異常な状態ともいえる」

 「言葉がなくても生きていけるし、人間であり続けられる」

 同一とは2つのものが同じであることをいう。

 当然2つの物があることが前提となる。

 自己同一性、ID、identificationなどの言葉で心理学、情報、通信、電子機器、セキュリティなどでお馴染みだ。

 同じ瞬間に2つの物を差し出されて「この2つは同じか」と問われる場合がある。

 別に時間同一性と言うものがある。

 この場合2つの物が差し出される時間がずれている。

 以前の自分、今の自分、未来の自分は同じ自分か?と聞かれると現代哲学的にはいろいろな答え方がある。

 同じではない、というのが現代哲学が新しく発見、発明した答えだ。

 同じ質問でもどういう答えになるかというのは質問に含まれない前提による。

 質問が雑だと回答者は前提ごとに回答を羅列することになり時間がかかる。

 同一や唯一や単一は精神医学で勉強する場合がある。

 それぞれが問題になる病態があり使い分けられる。

 ソジーの錯覚、フレゴリーの錯覚、重複記憶錯誤など正常、以上に関わらず使い分ける状況がある。

 唯一と単一は似ている。

 どちらも一つであって複数ではないという意味を含む。

 ただ使い分けが生じる場合がある。

 「唯」と「単」の違いだ。

 英語で言えばonlyやspecial、singleやsimpleなどの単語を使い分ける場合を考えてみるとよい。

 相互に書き換え可能な場合もあるかもしれないが書き換えると意味が変わる場合がある。

・言葉と記号の特別視

 現代哲学で言葉が特別視される。

「言葉が言葉以外の何かを作り出す」

あるいは、

「言葉以外の何かが言葉を作り出す」

事があるし、そういう能力があるからだ。

 それを使うこともあるし使わないこともある。

 この「言葉以外の何か」に再現性もないし復元もできない、と考えるのが現代哲学だ。

 しかし言葉は言葉を復元できる、とも考える。

 意識的に使う場合もあるし意識的に排除する場合もある。

 しかし現代哲学で重要なのはこれだけではない。

 「言葉が別の言葉を作り出す」

という点だ。

 「言葉以外の何かが別の言葉以外の何かを作り出す」

 これも現代哲学の結論だ。

しかしこれは現代哲学より前の哲学でもしばしば普通に見られる。

 この場合も作る側の「言葉以外の何か」も作られる側の「言葉以外の何か」も再現性もないし復元もできない。

 天文学的確率で再現や復元できるかもしれないくらいは言ってもいいかもしれないがそれはできないのと同義ともいえる。

 「言葉が別の言葉を作り出す」これは現代思想のメインテーマだ。

 ロラン・バルトのテキスト論、フーコーの思想、デリダの記号学の提唱、そしてコンピュータがこれを出発点としている。

 特に圧倒的なのがヒルベルトの現代数学からのコンピュータだ。

生産性の向上など産業のみならない革命を起こした。

社会を変えたし今も変えている。

コンピュータとはプログラムだ。

プログラムは記号を記号に変える命令だ。

プログラム自体も言語だ。

プログラムを走らせ実行するハードはいる。

ハードを走らせる電子演算装置、記憶装置、センサー、入力装置、出力装置、機械が出来たのでプログラムをいかせるようになった。

しかしプログラム自体の理論はとおに出来てきた。

 現代数学とはその研究だ。

 そうみると現代数学自体が情報科学に包含されるともいえるし逆ともいえるかもしれない。

 ちなみに数学の語源であるマスマティクスの意味は「学ぶべきもの」だ。

 数の学問ではない。

・何かと記号の相互変換

 コンピュータはシンプルだ。

 センサー、入力装置、出力装置がインターフェースだ。

 インターフェースのどこかでアナログをデジタルに、デジタルをアナログに変換する。

 記号や言語はデジタルだ。

 アナログ⇔デジタルの規則が決まっているのがコンピュータだ。

 決まっていないのが人間だ。

 人間の中にも色々いる。

 生まれつき規則を決めたい傾向が強まると自閉スペクトラム症というものになる。

 感覚過敏だし情報が膨大に入ってくるしあいまいさやごまかしや取捨の様式に違いがあり規則を決めないと混乱する。

 決めてさえ混乱しやすい。

 情報が洪水のように感じられる。

 拘り、情動性、限局された思考、行動、興味など表現される。

 学者肌の人もそういう傾向だ。

 他方で言葉仕様にあたっての障害も多い。

 障害でなくても規則を決めずに使えるのは才能であったり有利な形質・機能である場合がある。

 昔は関数計算、保険計算、天文学や航海の計算のために必要な関数の表を作る職業をコンピュータと言った。

 大きな施設で大量の人を集めて数値計算させる。

 そういうのは今は電子演算装置で自動化され表を作る必要がなくなった。

 現在のこの関係の職業はもうちょっと上流工程を担っている。

 ITエンジニア、プログラマー、SE、グラフィック、ウェブ制作などしている。

 一番上流の仕様や要件の定義を失敗すると悲惨なことになるようだ。

 最初にアナログをデジタルにするのに失敗しているから何かの偶然がなければ企画やプロジェクトはうまくいかない。

 うまくいっているように見えても騙しのつじつま合わせと胡麻化しだろう。

 こういう社会変化は演算回路の集積化の成功で確定した。

・ニーチェ、ソシュール、ヒルベルト

 大学の授業で教師に教えている内容が時代遅れであることを強調されたことがあるかもしれない。

 教科書というのは研究者から見れば基本内容が時代遅れだ。

 そもそも教科書的な内容を吹っ飛ばして自分の研究していることや最先端の知見を大学の学部生であることを度外視して授業された人も多いかもしれない。

 そもそも発展途上の学問であれば教科書に書いてあることは時代遅れだ。

 一般に流布するのは更に遅れる。

 ニーチェ、ヒルベルト、ソシュールの仕事は現代哲学を先取りしている。

 見方によっては答えを出してる。

 しかし汎用化、その持つ意味、実用化されるのはとても遅れた。

 ニーチェは哲学の存在論と認識論についてある意味すでに結論を出している。

 ソシュールは言語に対する本質的な考察を始めている。

 ヒルベルトは数学や論理学という枠組みの中だけなら現代哲学そのものな上に電子演算装置や集積回路により科学や工学という学問レベルではなく産業や社会的イノベーションのレベルで記号、言語、言葉、象徴というものを生活の一部にしてしまった。

 現代では半導体があらゆるものに組み込まれていて経済や景気を見る際にフィラデルデフィア指数という半導体の指数を見るのが常識になってしまった。

 現在の技術や工業は基礎研究の上に置かれておりどんな学問でもその基礎は言語と数学だ。

 これは中世から変わっていなくて当時の大学も専門に進む前に言語と数学が必修とされた。

 そして近代になると神学を除けば哲学が学問のみならず全ての基礎を支えるものとみなされるようになった。

 言語学、数学、哲学、それぞれの分野で思弁の範囲で結論を出た最初の時期が1900年前後だったのかもしれない。

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。