怪物 Monster
迫り来る緊迫感のあとにくるゆるやかな解放
前半戦、現代を生きるうえで物事や出来事の目に見えない「何か」を予想し、何かがあるのか、何のためなのか、何をもってなのか、「何」について考えて生きていく自分そのものが、緊迫感と共に映画館の椅子に前のめりに座っていた。しかし、気がつけばいつの間にか解放された穏やかな心で、まるで子供に戻ったように映画館の椅子に力が抜け深く腰掛けていた。
この映画の最後になるにつれて何かがほどかれていき、自分が童心にかえっていくように映画のスクリーンを見つめていたなということを鑑賞後に気がついた時に思った。脚本家の坂元裕二さんが言った「たった一人の孤独な人のために書きました」是枝監督が唯一脚本にひとことだけ書き落とした「世界は、生まれ変われるか」のこの二つの強い想いを私はこの映画から確かに感じさせられていた。そして今後、今の世界を生きていくうえで、映画館の中でふと生まれたこの心とスクリーンを見つめる眼差しこそが必要なことなんだと心に落とされた気がしてならなかった。
その緊迫感や考えることから解放された瞬間に
これが「映画」だ。と
鑑賞後にも
「映画」を観たんだ。と心が掴まれ続けていた。
期待を裏切られ、期待通りの映画だった。
映画を観た後にどれだけの余韻にも浸ることができる。
第76回カンヌ国際映画祭
コンペティショッン部門 脚本賞、クィア・パルム賞の受賞
是枝監督の記事は見つけたが、
脚本家の坂元裕二さんの声をもっと聞きたくて
インターネットを探し回ったけれど
あまり言葉がみつからない。
そんなのそもそもこの映画の「脚本」で語っているじゃないか。
それが全てじゃないのか。そういうことにしよう。
そういう風に思えるほど美しい作品。
そうね、パンフレット買いに行こう〜
生きていれば誰もがなりがちな、
断片的な面をみて物事の大枠を創り上げてしまうこと。
その人間の在り方が依存的にも、儚くも、奇妙にも、野蛮にも、美しくも描かれている。
例えば母親が自分のお腹を痛めて産んだ自分の子の全てを知っているという認識から、子供が自分の知らない「何か」になったとき
例えば子供が学校という社会の中で
得体の知れない自分の「何か」を感じ
言葉にできずただ暴れることしかできないとき
例えば教師という立場で学校という枠組みに押しつぶされ
メディアにも人の心は囚われ
教師としての自分とは「何か」を見失ったとき
具体的なシーンで言うと、
個人的には校長室で保利先生があの人間味を感じない
狂気じみた飴玉を舐めるシーンが強く思い出される。
ーーそんなときはさ飴玉でも舐めるんだよ
と帰路の横断歩道で彼女に言われていた過去の事実を知れば
狂気が人間味に変わる。
冒頭では人間じゃない!!と教え子の母親から言葉で殴られ
その教師としての態度に見ていて怒りさえも覚えるあのシーンだった筈だったが
紛れもなく途轍もなく人間だった。
きっと世の中でもそういうことは溢れている。
断片的なことでジャッジしてしまう。
あの登場するそれぞれの立場の視点での順番と展開だったからこそ
感じられたことだし、わたしの心にはしっかり届いた気でいる。
心がグッと動いたシーンでいえば、
星川くんが女の子ふたりに挟まれて
教室に入ってきた時、今までの全てが繋がるような
自分の脳内でのこの物語の軸のばらつきがすっと整理された瞬間だった。
この映画の芯の部分への入り口が見えた気がした。
あとは湊くんと星川くんが2人の場所で
パンにかぶりつきながら「怪物だーれだ」のゲームをするシーン。
涙がでた。あれは何の涙か
同情でも悲しみでも悔しみでもなんでもない。
言葉にできない涙だった。
自分がわかりきれていないし
見えてはいないが相手に自分のことを「質問してみる」
質問された側は相手に自分自身というものを
わからせてあげられるように答えてあげていく
質問する側も質問に答える側も
時間をかけ吟味しながら
相手に明解にはなりきらない言葉で
相手の正体を伝えていく。
そんな、自分がどの「怪物」のカードを持っているかを
当てていくゲームだけれど、
あのゲームの方法のようなことこそが生きているうえで必要で
そういうことが世に落ち潜んでいる孤独を救うのかも知れない。そう感じたな
この映画の中で唯一と言っても過言ではない台詞を感じさせる
「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」と校長先生が湊くんに言う妙に心に残るシーン。
続くように校長先生は「しょうもない」と言う。
あれは孫を亡くしたことに対して
夫を犠牲にしたかどうかの真偽はどちらにせよ
自身に向けた言葉でもあるような気がして
「しょうもない」は校長自身に向けたことなのではないか
無機質だった校長先生が唯一、人間にみえた瞬間だった。
あの校長先生の台詞の後に響く音楽は
今まで保利先生が屋根の上で立ち尽くした時や
他のシーンでも多々流れていたが、
同じ音楽なはずなのにまるで聞こえが違った。
それまではずっとずっと奇妙な音だったのに、
生命が作り出すようなエネルギーがあった。何かを感じられた。
それも、是枝監督があの台詞は最後まですごく考えて、
あの台詞のあとの音楽がどのように聴こえるか聴いてほしいみたいなことを話していて、うわぁやられたなぁと。映画を観終わったあとに読んでね。
ざっとシーンでの感想を書き走ったけれど
飴玉を舐めるシーンでは、
人間離れしている奇妙さを人間味があったと感じること、ずっと奇妙に聞こえていた音楽が人間の吐き出す音に聞こえること、星川くんの自宅が外構は綺麗にされているが、中に入ると無機質であたたかみを感じない空間なこと。
そんな風に1つのものやことでも断片的につい見てしまう。
(予告のミステリアスな雰囲気は冒頭の奇妙さを最初で確立すべく手法だったのかとすら。ほら、断片的にしか見てないでしょう。っていうね)
星川くんの父親のように葉には水をやって育てて、
外面だけは良いようにみせる。
実際には自身の子供を育てるという親として本質的な部分は向き合えてない。
でも一見わたしたちはあの家を見たら
良い暮らしをしているだとか、
母親が綺麗にしているのだろうと思うのだろう。
この映画の中では数々のそういうシーンがふつふつと私の心を突き刺した。
思っていたことがいかに断片的だったこと、一方的だったことかに気付かされる。
そういうことがクィアを含むこの映画で出てくること以外でも世の中には溢れ出ている気がした。
それを映画の中で着々と気付かされ、観た後も想わされる。
子供たちが「これから」と言わんばかりに嵐から晴れ間へ
今まで物理的に入れなかった道(貨物線路)へ
精神的に解放され走っていくあの姿を見て
大人である私たちが一度でも世界を変えてみなければということを心に滲ませる。
まだまだ、書ききれない気がする
まだまだ書きたい気がする
ただ、もう言葉にしたくない
この感覚での余韻にまだ浸りたいから書き切らないようにする。
最後に!!!
故坂本龍一さんの本作サウンドトラックのうちの2曲がアルバム「12」からだということを知り驚いた。
まるであの映画のために創られたような音楽たちだったから。サウンドトラックだから当たり前のように映画のシーンごとのために創られたもののつもりで観ていた。
なぜならサウンドトラックアルバム1曲目の
誰かの吐息が音と紛れる「20220207」は
映画の中の子供たちが生きるために息する音にも聴こえるし
死の直前まで音楽を創り続けた坂本龍一の息にも聴こえる。
涙が出てくる。止まらない。
外の風を感じながら聴いてほしい。
音楽とともにこの映画の余韻に浸ってほしい。
この映画とこの音楽とが創造的にではなく
運命的にも本能的にも結びついたことを強く感じる。
SONYのヘッドホンで聴き続けてしまうよ〜
目の前の出来事にどうすることも出来ずに
大切な人(星川くん)を素直に守れない自身への劣等感や
自身のどうしようもできない心に対して
教室でただ暴れることしかできない
それでしか守ることができない湊くんのシーンも
今まで交わらなかった母親と教師が
嵐の中でがむしゃらに泥をかき分けるしシーンも
孤独を感じる人たちへ、全ての人たちへそうして良いものだという風に。
兎にも角にも美しい映画だった。
言葉を大切にしているからこそ、
言葉にならないことを大切に
みんなが抱える”見えないもの”を
「映画」によって世に落とす
怪物が地に着いた。そんな気がした。
ー2023.06.07 日付が変わる少し前に鑑賞
2023.06.08によせて
※孤独=LGBTQ・クィア・世間の期待に適合できない人として書いていないよ(カンヌ国際映画祭の審査員長の言葉を借りて)
是枝監督や脚本家の坂元さんの記事やインタビューを読んで走り書きしました。映画を観終わったあとは是非、お二人のこの作品に対する想いに触れて欲しい。
2度目、観たくなった。