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ブルーな育児を支えてくれたのは、見知らぬおじいちゃん、おばあちゃんたちだった

28の冬、母になった。

妊婦生活はすべてが不安に苛まれていた。妊娠初期に入院し、その後は安定期まで安静を命じられ、1年の大半を室内でじっとしていた。無事に生まれて来るかどうかわからない、小さな命に思いを寄せる日々。出産準備も後手に回っていた。動けなかったからというのもあるが、もしものときのリスクヘッジの意味合いが大きかった。少しでも胎動がおさまると、気が気じゃなくて眠れない。検診のたびに、祈るような気持ちで超音波のモニターを見つめる。子どもの顔を見るまで、胸のざわつきはやまないだろうと思った。

出産もイレギュラーが続いた。予定日から一か月以上前のある日。突然の破水。まだ臨月ではないが、出産しなければならなくなった。しかし、病院到着後はなかなか陣痛がつかず、結局、丸々2日を要し、心身ともにヘトヘトの出産になってしまった。なぜ、こんなにも不安を煽られる展開になるのだろう。事前に読んでいた妊婦本の内容はどれひとつ当てはまらず、まったく役に立たなかった。

子どもの顔を見れば、長らく続いた不安定な気持ちに終止符が打てると思っていたが、そうはいかなかった。早朝に出産し、その日のうちに母子同室となり、育児が始まる。初めてのおむつ替え、初めての授乳。もちろんうまくいかない。そのうちに息子はお腹が減って、ワンワン泣くようになった。どうしよう。母親1日目でも、お腹が減っているのはわかった。授乳しているけど飲めていないようだ。

母乳を開通するため、産科の看護師さんに指導してもらう。でもすぐに潤沢にとはいかない。胸は痛いし、息子は泣くし、眠れないしで、パニックになった。とにかく抱いていれば落ち着いてくれたので、息子を抱っこしながら夜な夜な暗い病院の廊下を徘徊した。

またしても、大きな不安に襲われていた。私の腕に包まれて眠る、生まれたてのか弱い我が子。これからちゃんと育てていくことができるのだろうか。

産後は実家に身を寄せた。初孫のかわいさ故に、父母もいろいろと神経質になり、風当たりは強くなる。ああしないとダメ。こうしなくて大丈夫か? ただでさえ、自分もピリピリしているのに、輪をかけるような不安提起をされ、どんどん追い詰められていく感じがした。

まさに、マタニティーブルーからの産後うつだなと思う。当時はまだそんな言葉はなかったし、取り沙汰されることもなかった。

1歳まで寝かしつけに苦労し、疲労困憊。夫は毎日終電で帰る生活で、育児は完全にワンオペ。朝に夫を送り出したら、誰とも話をせずに1日が終わることもざらにあった。子どもの成長は喜ばしいが、常に何か鬱々とした感情が、胸の奥底で渦巻いていた。


そんな私に、話しかけてくれた人がいる。

息子を抱っこして、耳鼻科で順番待ちをしていたとき、「ボク、お母さんにそっくりだねぇ」と、隣に座った見知らぬおじいちゃんに声をかけられた。確かに、私と息子はよく似ている。「そうなんです、よく言われるんです」と返し、おじいちゃんと二言三言、世間話を交わした。その何気ない会話が、なんだかとても温かく感じた。

実家に行く電車内で、隣に座った見知らぬおばあちゃんに声をかけられることもあった。「ボク、お母さんにそっくりだねぇ」「そうなんです、よく言われるんです」。このやりとりが、いつも会話の糸口になった。

私が眉間にシワを寄せてお世話に四苦八苦している息子に、おじいちゃんやおばあちゃんたちは、それはそれはやさしく微笑んでくれた。そして、おばあちゃんは必ず、「お母さん毎日大変でしょ。でも今だけだからね。がんばって」と、言葉を添えてくれた。いつも目頭が熱くなった。

私の不安に寄り添ってくれる人がいる。嬉しくてたまらなかった。どの時代のどのお母さんも、みんな似たような不安を抱えながら育児をしてきた、しているのかもしれない。そう思えるようになってから、私を長らく覆い尽くしてきた不安は、霧が晴れるように消え去っていった。

あれから10年。今度は私が声をかける番になった。隣に赤ちゃんが居ようものなら、「かわいいね〜」と声を出す。いや、心の声が漏れ出てしまっているというのが正しいかも。あのときのおじいちゃん、おばあちゃんの気持ち、今ならわかる気がする。

使い古された表現だろうけど、子どもは未来への希望だ。そのまばゆい光を愛しく思う気持ち。そして、いつかの自分のように、育児に奮闘するお母さんたちへの小さなエール。そのすべてをやさしい笑顔に込めて、次の世代へつながりますようにと祈りながら、今日も私は微笑んでいる。


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