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シドニー!!!③〜カンガルーステーキ編〜

【前編】シドニー!!!①~剥製カンガルー編~
【中編】シドニー!!!②~野良カンガルー編~

海外旅行の準備ができない。

準備はだいたい前日、なんなら当日の朝ということもある。(今回は当日だった。おかげで洗濯物が乾いておらず大変な目にあった)現地情報は飛行機のなかでさらっとさらうだけ。一応旅の本は買っておいてたまにパラパラ眺めるのだが、どうも実感が湧かないというか、この中からあえてひとつを選べないというか、「その日に行きたいところや食べたいものの気分なんて、行ってみないとわからないじゃない」というのが正直なところだ。

ところがこれが国内旅行となると、打って変わって入念な準備をおこなう。現地の移動手段の手配からレストランの予約、果ては旅のしおりを作り始めたりするから準備の気合の入れようが違う。

たぶんひとつには役割分担の問題があって、我が家では海外旅行は夫、国内旅行はわたしが主導で企画することが多い。それは国内旅行はわたしのほうが断然慣れていて土地勘があり、先の見通しが立つ(その日の気分さえもなんとなく予測がつくのだ、国内だと不思議と)からであるが、そもそも国内の場合わたしの「やりたいこと」が先行していることが多いからでもある。たとえば山形に行って雪を見ながら温泉に入り、美味しいワインを飲みたいと思いつくと、それをすべてクリアできるような旅路を考え始めてしまうのだ。せっかく行くのだから、と。

ところが海外となると、土地勘はおろか自分の情緒でさえも予測ができなくなってしまう。先の見通しが立たず、イメージができないのだ。だいたい海外に行こうと言い出すのは夫であり、その夫自身「特になにをしたいわけじゃないけど、とりあえず日本を出たい(ワインがあるならどこでもいい)」という思考で旅先を選ぶことが多い。そうなるとわたしのモチベーションの育てようもなく、いまいち準備にも身が入らない。仕方ないので目的はひとまず置いておいて、とにかく現地に行ってしまうしかない。

今回のシドニー旅も、現地での行動はほとんど決めていなかった。とにかくハンター・バレーに行くこと。ニューサウスウェールズ州のワインを飲むこと。そして、数少ないもうひとつの「予定」が、オペラハウスで音楽を聴くことだった。


タロンガ動物園、自覚のある動物たち

シドニー滞在も4日目となると、町の歩き方もこなれてくる。ここを右に曲がるとあのコンビニエンスストアがあるとか、この坂を下ると海辺に出られるとか。わたしはRPGのダンジョンがどうしても苦手で、どこの道を通ってどの部屋に行けるのかがまったく覚えられない。毎回不思議のダンジョン状態になってしまうので、ゼルダのティアーズオブザキングダムがクリアできていない。そんなわたしも実際に町を歩けば、4日で道を習得することができる。

シドニーの町にはそこらじゅうにカモメがいる。海が見えない海町なので、なんとなく不思議な気持ちになる。

そんなこなれた町で遅めの朝食をとる。向かったのはダーリングハーバー沿いのHarry's Cafe de Wheels(ハリーズ・カフェ・デ・ホイールズ)。オージーの国民食と名高いミートパイを売る屋台だ。

特にこの店で人気なのが「ハリーズ・タイガー・パイ」で、マッシュポテトのうえにマッシュエンドウがたっぷり乗っているという、ポップな見た目をしている。面倒くさそうに仕事をしていた中東系のスタッフは、我々を見るやいなや「どこから来たんだい?ニッポン?ああ、ニッポン人はみーんなこの緑のパイを食べるぜ、そうみーんなさ」と言ってきた。この商売っ気がまさに中東系だ。ニッポン人は勧めれば買うと思っている。集団主義的消費行動の強い日本人には有効な商売手法だろう。それでもとにかくいったんメニューを見させてほしいのだ。たとえ最終的に、それを買うとしても。

買った

オージーのミートパイは、中にグレイビーソースが入っていてトロトロとした食感をしている。ミンチの肉、細切れの肉、どちらのパターンもあるそうだがハリーズカフェのパイにはビーフシチューのような細切れ肉が入っている。

これが意外にあっさりしていてブランチにちょうどよかった。夜までの間に消化できそうであるばかりか(30代後半にとってミートパイはときとして重い)、胃の仕事ぶり次第では間食まではいりそうだ。なかなかいい滑り出しだ。シドニーも残すところあと2日。食べられるものにもそろそろ限界が見えてくる。

ハリーズ・カフェをあとにして、サーキュラーキーへと向かう。4日目にしてようやく「観光地らしい」エリアだ。今日はここから船に乗り、対岸の動物園に行く。

その名も「フレンド・シップ」
シドニーの観光名所が一望できる
昨日渡ったハーバーブリッジ

ところでよく見ると、ダウンを着込んだ女性から半袖のカップルまでみな様々な格好をしているのがわかる。おなじ船(フレンド・シップ)に乗っていても、これを寒いと感じている人と、暑い(あるいはちょうどいい)と感じている人がいるというわけだ。夫が言うにはホーチミンの冬はほんの1週間ほどで、日本人の我々からするとちょっとしたジャケット1枚あれば十分なのだが、現地のベトナム人たちは積極的にダウンジャケットを着るのだそうだ。「今日はずいぶん暑いな」と思った日本の初冬に、分厚いダウンを着た南米系の男性を見かけたこともある。たぶん体感温度というのは生まれ育った環境によっても変化するのだ。フレンド・シップというのは、だから難しい。正義が立場によってまったく反転してしまうように、寒暖という概念もあるいは本当には存在しないのかもしれない。本当に?

さてそんなフレンド・シップの哲学的な船旅は10分少々で終わりを告げる。いよいよオーストラリアの固有種たちが待つ、タロンガ動物園に降り立つのだ。ここはオーストラリアでもっとも歴史のある動物園でもある。歴史がある、ということは、動物園嫌いの夫(なにが楽しくてわざわざ動物を見ないといけないんだ?ぶつぶつ)を動物園に連れてくるための、大切な口実のひとつでもある。

いかにも歴史のありそうなエントランス
ちょっとジャンプするだけで「オ〜!」と観客が湧く。いい人生(コアラ生)だ。
シドニーの町並みをバックにのっしのっしと歩き回るキリンたち。あまりにフォトジェニックでつい何枚も写真を撮ってしまう。あとから見返すと、何の変哲もないただのキリンに違いないのに。
サービスショット満載

タロンガの動物たちはわりと愛想がいいというか、日中だというのによく動き回っていた。日本の動物園にいくとたいがい眠り込む後ろ姿に「おーい、フェネック君やーい」と声をかけることになるのだが(フェネックは夜行性なので仕方ないというか、フェネックにとって動物園勤務は夜勤みたいなものだ)ここの動物たちはみんな起きていて、さらに人間がそこにいることをきちんと認識しているようだった(フェネック以外)。さすが世界のタロンガ、ここに勤務する動物たちはサービスの気概がある。

百獣の王感をきちんとかもし出すオスライオン。なお動物園スタッフの知人が言うには「ネコ科はみんな警戒心が強い。そうじゃないのはライオンぐらい」とのこと。さすが百獣の王…というか、ただのでかいネコというか。
タイガーゾーンにはこんな「打ち捨てられたトラック」が。ここにこどもたちが乗り込むと…
トラが颯爽と飛び乗る。こどもたち大歓喜。これはまた連れて来たくなるはずだ…トラ、営業力の勝利。
カンガルーファイトを繰り広げるカンガルーたち(サービスショット)
ウワァッ(プロレスだといいんだけど)
名前がまったく可愛くないことでおなじみのタスマニアデビル君。小さな体で「ててててっ」と一生懸命走る姿が大変可愛らしいばかりか、何度もカメラ目線をくれるのですっかり推しになってしまった。アイドルの自覚がはっきりある商業アイドルが好きです、わたしは。
無事に間食もできました

なんだかんだと3時間ほど滞在したタロンガ動物園。動物園嫌いの夫いわく「シンガポールのナイトサファリと、タロンガ動物園は見る価値がある」とのこと。動物たちの営業力の勝利を確信した瞬間であった。

シドニーのワイン事情

さてシドニーに戻ってきた我々は、夜の予定まで町歩きを続ける。なにをするか。もちろん、ワインだ。なお今回の旅ではシドニー市内に点在する5ヶ所のワイン屋に訪問した。これはあくまで旅行記なので、たまにはそういった情報にも焦点をあててみます。

[キャンパーダウンセラーズ]
シドニーの小高い丘の上の地区で、bills1号店から徒歩3分ほど。今回訪問したなかではもっともワインの種類が多く、いわゆる「ナチュラルワイン」(ただしジャンルはスキンコンタクトやビオディナミとして分けられていた)も豊富だった。
店内ではワイン業者の男性が店員にワインの試飲をさせていて、ああ、この業界構造は世界中どこでも同じなんだなぁと妙に親近感を覚える。
[シティセラーズ]
ダーリングハーバーエリアの酒屋で、ホテル晩酌用のワインはここで調達した。
オーストラリアはワインショップでもブドウ品種ごとにワインが並ぶ。大変わかりやすくてよいし、ここは手に取りやすい価格帯も豊富だった。ただしこのあたりは町が暗く、海沿いで、なんとなく陰気な雰囲気が漂う。やはり日本と比べると「アルコール」に対する思いはやや後ろ暗いところがありそうだ。
[レッドボトル]
サーキュラーキーにあるボトルショップ。市内に数店舗あるチェーン店のひとつだ。安心して入店することができる。
この日は南オーストラリア州にある「セラフィノ」というワイナリーの試飲会をおこなっていた。もちろんわたしもいただいた。海外のワインショップではなにを買えばいいのか迷いがちなのだが(どれも珍しいので逆に選べない)、こういった試飲イベントに出会えると嬉しい。
[ミスターリカー]
サーキュラーキーの駅中にあるいわゆる酒屋。珍しく21時まであいており、(シドニー的な)夜遊びの帰りにもギリギリ立ち寄れる。しかしここはいかにも「煙草と酒、売ってるぜ」というハードボイルドな雰囲気が漂う。そうかワインってただの酒なのだと、シドニーにいるとときおり実感する。(なお写真はGoogleマップから拝借した。店頭のおやじの眼光が鋭く写真を撮れなかったのだ)
[ヴィンテージセラーズ]
こちらもシドニーの町中にある。店内は広く綺麗で入りやすい。他国からの輸入ワインもそれなりに品揃えがあった。
フランスでもそうだったが、やはり海外のロゼワインの販売面積は広い。もちろん日本でもロゼがもっと売れてよいと思うが、わたしはどちらかというと「それも日本のワイン産業の特徴、おもしろい」と思うほうだ。みんな違って、みんないい。(それに、わたしも普段はロゼより赤を選ぶほうだ)

なお、ワインショップをめぐっていると、ときどき日本にも輸入されているワインと出会う。たとえば今やコンビニでも見かけるイエローテイルはその最たるものだが、その価格に驚いた。現地価格AU$11。日本円にして¥1100ほどだが、このワイン、日本のセブンイレブンでは¥988で買える。2本でAU$20のお得なセールよりも、日本のコンビニのほうがさらに若干安いのだ。輸入のコストも関税もかかっているはずなのに、一体どうなっているのだろう。

今回の旅で痛感したことだが、やはり日本のワイン産業はすさまじい。こんなにも世界各国ありとあらゆる産地の、あらゆる品種、そしてあらゆるスタイルのワインを消費者が簡単に探し出すことができ、少量生産の稀少なワインから大手生産者まで幅広く適正値段で販売されている(そしてインターネットを介して安易にうちの玄関まで届けてもらえる)国なんて、おそらくほかにない。オーストラリアでベトナムのワインを探すのは相当苦労するだろうし、ドイツでニューヨークのワインを探すこともきっと重労働だ。日本のワイン造りの歴史は欧州のそれと比べると浅いが、結果的に輸入文化が花開いたわけだからなにが正解なのかはわからないものだ。イギリスの産業が遅れていたからこそ産業革命が起こったように、中国の政治がうまく行きすぎていたために近代化が遅れたように。時代というのはあとにならないと、今、本当に何が起きているのかは分からないものなのだ。

オペラハウスで極上の睡眠

さてシドニー最後の夜は、いよいよオペラハウスである。シドニーのランドマークであり、世界遺産でもあるこの劇場。オペラハウスについて調べてみると『なんと観劇をしなくとも、ツアーに参加すれば屋内に入れるのです!』という記事が散見されるのだが、個人的には「いや、そこは素直に観劇したらよいのでは?」と思う。かつてクロアチア国立劇場のチケット売り場のおばちゃんから「このオペレッタ、全編クロアチア語だけどあんたら聞き取れるの?」と言われた言葉さえ聞き取れなかったが(いぶかしげな顔をされたが、なんとかチケットは売ってもらえた。それが彼女の仕事なのだ)、それでも観劇をすることはできた。理解の質さえ求めなければ、観劇は誰にだってできる。そう、赤ん坊にだって。

オペラハウスに続く海沿いの道には、オペラ・バーと呼ばれるバーエリアが設けられている。勝手にテーブルに座り、QRコードから注文をするとワインや料理が届けられるシステムでとても気軽だ。本物のオペラハウスを見ながら、オペラハウスオリジナルのワインで乾杯を洒落込むこともできる。わたしたちも少し早めの(といってもシドニーではこれが「普通」の)夕食を取ったが、驚くことにここのご飯が、今回の旅でもっとも口にあった。

 

特に珍しい料理ではない。普通のピッツァ(でもアーティーチョークが乗っている)に、普通のクスクスサラダ(ブロッコリーが美味い)、そしてカラマリ(イカ)のフリットだ。たぶん、味が濃いのだろう。要するにほかよりもちょっと塩っぽい。食卓の塩コントロールに慣れてきたとはいえ、やはりわたしのハート、いや舌は、塩味が恋しい日本式なのだ。シドニーで塩味が恋しくなってきたみなさん、オペラ・バーはオススメです。

さあ、世界遺産で音楽に包まれる、極上の夜にご招待!

気持ちよく音が抜ける劇場、小気味の良いイタリア人指揮者の指揮、冗談のわかるコンサートマスター。演目はシェイクスピアのテンペストをモチーフにした朗読劇であった。たぶん、有名な朗読者なのだろう。彼が登場してくると一段と大きな拍手があがった。

ここで、気持ちよくうとうとした。1日歩き回った疲れもあったし、旅全体の疲れもそろそろ溜まって来る頃だった。古典英語を使っているのか、1時間の上映中ほとんどなんの言葉も聞き取れなかったこともあった(聞き取れない英語は、明るい念仏と同じだ)。言い訳をするようだが、わたしはどちらかというとクラシック音楽が聴けるほうの人間だ。幼い頃からヤマハに通い、高校では交響楽団に所属してオーボエを吹いていた。当時はクラシックオタクで(なんでもオタク化するのだ、わたしは)、ベートーヴェン5番の指揮者違いの音源を聴いたし(カラヤンとフルトベングラーの違いとは?)、自分たちが演奏する交響曲のスコアを自宅で読み込んでいた(今思えばなにを読んでいたというのだろう)。それでも、寝るのだ。安心して欲しい。クラシック音楽が聴けることが、教養を意味するわけではない。かの小澤征爾がボストン交響楽団の音楽監督を務めていた頃、客演指揮者の演奏を客席から聴くことがあった。小澤は、眠った。いい音楽を聴いて眠るのは当然だと。世界の小澤が眠るなら、我々も眠ってよいはずだ。世界遺産のなかで、最高の音響に包まれながら、気持ちよくうとうとしようではないか。一切ずれることのない精緻なバイオリンの高音と、小さく放たれたトランペットの音の輝き、不穏に歩み寄るティンパニのリズム。最後に主役のプロスペローが語りかける。「自分を島にとどめるのもナポリに帰すのも観客の気持ち次第。どうか拍手によっていましめを解き、自由にしてくれ」(Wikipedia訳より)

こうして拍手が起こる。シェイクスピア最期の演目が終わる。長い時間だった。それでも聴いてよかった。こうしてわたしはオペラハウスで音楽を聴いたことのない人間から、オペラハウスで音楽を聴いたことのある人間になった。誰にも頼まれず、誰から称賛されるわけでもなく、ただ自分の胸に誰からも見えない勲章を掲げる。いいのだ、それで。人生とはそういうものだ。ただ生まれて死んでゆくだけの今生、自己満足の積み重ね以外になんの意味があるというのだろう。

オペラハウスからの帰り道、急に「ドン」とくぐもった音がした。振り返ると、夜空に花火があがっていた。あたりにいた人々が大急ぎで駆けて行く。「あれはなに?!」と口々に話す。そうか、ここは日本じゃないのかと強烈に思う。あれは花火といって、日本の夏にはあちこちで上がるんだよ。日本はもうすぐ夏だ。我々は花火は見ず、そのまま電車に乗り込んだ。日本に帰ったら好きなだけ見れるのだ、花火なんて。電車にゆられながら調べてみたが、結局なんのための花火だったのかはわからずじまいだった。

ケーキと、タワーと、カンガルーと

シドニー最終日の朝になった。やり残しのないよう、行きたいところを探しておく。まずは朝食にケーキを食べよう。朝食にケーキ!こどもの頃は絶対にできなかった、オトナにしかできない贅沢だ。

うかがったのはBlack Star Pastry(ブラック・スター・ペイストリー)。アートワークは今をときめく日本人アーティスト、ノリタケさん。
こちらの「スイカケーキ」が世界一インスタ映えする、らしい
どうだろう?

味わいは比較的あっさりしており、いちごの酸味とクリームのバランス、そこにかすかに香るバラの風味が上品で華やかだ。しかし、と立ち止まる。そう寄ってたかって話題にするほどだろうか。確かに見た目は鮮やかだが、夫が選んだ「禅チーズケーキ」(密度の高い黒ごまのペーストと、ほんのりとした塩気が抜群にいい)のほうが、あるいは味わい的には複雑な層を感じるが…。

しかしこの日の午後、別の場所でミルフィーユを食べたときにはっきりと思い出した。海外のケーキというものは、往々にしてただ甘いのだ。甘さへの許容量が高めに設定されているわたしでさえ、途中で「味変したい」と思うくらいには単調で暴力的な甘さだ。クロアチアのザグレブで初めてケーキを食べたとき、襲い来る甘さの暴力に悪意さえ感じたものだった。「えっ?!これ、砂糖の分量合ってる?!」

ーー合っているのだ。そして、ザグレブっ子たちはそれを美味い美味いと食べる。おなじようにシドニーっ子たちも、このミルミィーユを美味い美味いと食べているのだ。だからこそ淡い甘みのスイカケーキが際立つのだろう。ひとの文化から勝手に悪意を読み取ってはならない。それは推論のほうが間違っている。わたしたち日本人は「甘いもの」への探究心が尋常ではないことを、もっと自覚しなければならないのだ。

フォークが刺さらないほど固く、信じられないほど甘いミルフィーユ。これはこれで旅情はあるが、でかさも含めてやはり暴力的ではある。

なんとかと煙は高いところへのぼる、とはよく言われる。世界の都市を旅するとき、わたしたち夫婦は展望台にのぼりがちだ。サイゴンスカイデッキに、台北101。夫と最初の旅をしたとき(歳はハタチで、行き先は下関だった)、海峡ゆめタワーをおりて最初に口にした感想が「トイレの水ってどうやって汲み上げてるのかな?」で一致したときからずっと、我々が世の中を面白がるポイントは変わっていない。

シドニー・タワー・アイにのぼります

地上250mのシドニー・タワー・アイは、世界的に見てもそう高いほうのタワーではない。東京タワーが333m、スカイツリーが634mと考えると日本にいるほうが高所にのぼれる。しかしシドニーの町をぐるりと見渡すのには十分な高さである。2日目に雨宿りしたオーストラリア博物館に、荒天のため見送ったボンダイ・ビーチ、これから飛び立つシドニー空港も見える。いつかまたこの町に、帰って来ることはあるだろうか。

シドニーの摩天楼
雨の切れ目が見える

シドニーの町を十分に眺めたら、最後にどうしてもやりたいことがあった。それは、カンガルー肉を食べることだ。そう。わたしはこの旅でさまざまなカンガルーと出会った。博物館の剥製カンガルー、ハンター・バレーの野良カンガルー、そして動物園で飼育されている優秀なプロレス・カンガルー。この旅は常に彼らとともにあった。そしてついにわたしは、彼らを喰らう。ありがとう、楽しい旅だったよ。いよいよ旅も、クライマックスなのだ。

カンガルー肉は思った以上に淡白で食べやすい。鹿肉の臭みをもう少し柔らかくして、脂身を少なくした感じだ。赤身の肉に、ぎゅ、と旨味が詰まっていて、噛むごとに味わいが強くなる。同時にラム肉を注文したが、どちらも脂身が上品でいくらでも食べられた。ああ、わたしはこれを食べるために、シドニーまでやって来たのだ、たぶん。

おとものワインはニューサウスウェールズ州、オレンジ地方のピノ・ノワールだ。淡くフレッシュだが果実味があって親しみやすい。軽やかな脂身のカンガルー肉にはぴったりだった。

オーストラリアン・ステーキハウス。古い民家を改装した広い店内では、明るく早口なホールスタッフがテキパキと働いている。その仕事ぶりは見ているだけで気持ちがいい。隣では中華系のビジネスマンたちが商談をしている。ひとりで来店している女性もいる。きっとあらゆる人のニーズを満たすのだろう。平日の昼間だと言うのに店内は満席だった。

こうしてすべてのやるべきことを終えた我々は、日本に向かう帰路についた。旅の終わりはいつも寂しい。あの町角のコンビニエンスストアに出会うことは、もしかすると二度とないのかもしれない。それでも少しだけほっとする。日本に帰るのだ。あの柔らかい布団が待つ、わたしたちの町、日本に。窮屈で、忙しくて、留まることさえできない毎日に、ハンター・バレーの曇り空が、カンガルーの思い出が、句読点を打ってくれますようにと願いながら。

旅の終わりに

シドニーに到着してすぐ、SIMカードを差し替えた。ところがそれがうまく起動せず、しばらく町中でインターネットが繋がらなかった。

Twitter、Instagram、メール、ライン、流れてくるいくつもの噂やニュース。無意識に確認するイイネやコメント、ふと流れ込む誰かの怒りや悲しみ。それらを面倒だ、と思っているわけではない。わたしにとってはメディアもSNSも、生活を彩るための楽しいツールのひとつにすぎない。

でもこうしてひととき離れてみると、そこには家族との大切な時間があった。自分と向き合う空白があった。土砂降りの雨をぼんやり見つめる心の隙間があった。そうしてみて初めて、ああ、わたしは疲れていたんだなと知った。

シドニーは都会だ。オーストラリア大陸随一の町は、綺麗で、清潔で、きちんとしている。嫌なことはほとんど起こらないし(ただ毎日雨が降るだけだ、わんさかと)、食事は炭水化物と塩分が少なく、朝型で実に健康的な生活だ。こんな町で暮らしていたら、きっと健康になるだろうと思う。

それでもわたしは、東京の街に暮らすことを選ぶ。この街の人々を愛することを選ぶ。それは、わたしとおなじくらい窮屈なひとたちが、この夜に生きているからだ。いつかこの街を離れてしまうときは来る、たぶん。だけど今は、まだこのギラギラした街の端っこで誰かと手を取り合って生きていたい。誰かの夢の欠片がそこかしこに転がる、世界一賑やかなこの街の端っこで。

シドニーはわたしに、空っぽの心地よさを教えてくれた。そしてまた動き出せるようにとお守りをくれた。カンガルーの形をしたそれは、わたしにじわじわ染み渡り、全身を包み込み、これからのわたしを守ってくれるだろう。

きっとまた、旅に出よう。何度だって飛び立とう。しがらんだってかまわない。疲れたらまた休めばいい。自由の翼はほかでもない、わたしの心に宿っているのだから。

(シドニー!!!全3篇 完)

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■ ますたやとは:
関東在住の30代。ワイン好きが高じて2023年3月から都内のワイナリーで働きはじめ、2024年7月から六本木で『WineBarやどり葉』をオープンします。
2021年J.S.A.認定ワインエキスパート取得/2022年コムラードオブチーズ認定。夫もおなじくワイン好き。夫はWSETLevel3を英語で挑戦中。

▶WineBarやどり葉について

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