悲しみという感情は、必ず大きな幸せをもたらしてくれる。
父が旅立ってしまいました。葬儀を終えて、少しだけ実家での時間を過ごして東京へ戻ってきました。
悲しみや寂しさ、悔しさが支配してしまいそうになる中で、僕は今感じている大事なものをしっかりとこの先も感じ続けるために、この文章を書き始めたいと思います。
父が倒れたのは、2021年2月のこと。脳梗塞と心筋梗塞を併発していました。体調不良を訴えていたものの、病院に着くまでは意思疎通も歩行も可能でした。その前日には、僕と長電話もして、いろんな話をしていたくらいです。ですが、検査や処置が進んでいく中で意識が遠のき、そのまま意識不明になってしまいました。医師からの話によると「手の施し用がない」とのことでした。「よくこんな状態で歩いて病院に来れましたね」というレベルだったようです。この半年前から、体調不良を訴えながらも、医者嫌いで「病院なんか行くか!」と突っぱねるほどの頑固ジジイになってしまった父が自ら招いてしまった悲劇でした。闘病生活の中で、意識を取り戻すなど奇跡的な回復を見せる時期もありましたが、入院から1年半その戦いにあえなく終止符が打たれました。
旅立ったその日の午前中は、病院施設のリハビリ、レクリエーションに参加したり、看護師さんの問いかけに反応を見せたり、前日と変わりがない様子だったそうです。しかしながら、その次の看護師さんの巡回のときには、声がけに反応がありませんでした。もうすでに旅立ったあとだったそうです。
僕たち家族は、父の回復を祈り(それが例え奇跡的なものであるにせよ)、日々を一生懸命に生きてきました。僕たちが日々の暮らしを一生懸命に生きていれば、僕たちのまわりには間違いなく良い風が生まれます。その風は、きっと良い運気を呼び寄せ、それはやがて父に良い影響を及ぼすのではないかと考えたからです。
僕は僕のことを一生懸命し、真摯に、取り組もう。
僕はそう決意しました。
父が闘病生活に入ってから、そんな決意の中で、僕は入籍をし、そして今、自分の店の開業に向けて最終段階に入っています。この1年半で、僕の人生は思いっきり変わりました。いえ、自分で主体的に変えに行ったと言って良いと自信を持って言えます。明確に人生の目標ができ、登っていくべきハシゴを手に入れることができました。
葬儀のあと、父の書斎に入り込んで、父の蔵書を眺めていました。
僕が今もきちんと本を読み、新しいことを吸収しようという行動をとることができるのは、幼い頃から父から「本を読め」と刷り込まれたからです。
「すべての問題には絶対に解決策がある。」
これは僕の信条の一つですが、これは父から「本を読む」という習慣を植え付けてもらったからだと思います。どこかに必ず解決策がある。自分が動きさえすれば。
そう。すべては自分次第なんだと、今までもそう思って生きてきたけれど、今回それを強く意識することになりました。僕は父に植え込んでもらった植え込んでもらったこの習慣をもっともっと大事にしたいと思うようになりました。
そのために、もっともっと丁寧に生きていこう。
丁寧に生きるとは、僕にとってどういうことなのだろう?とずっと考えてきました。父が旅立ったことで、僕には明確にそれが見えました。
「人を大切にして生きる」ということ。
とてつもない悲しみや寂しさが支配したとき、それを解消してくれたのは「寄り添ってくれる人たちの存在」でした。
ただ居てくれるだけで、僕たちの心はほぐれていきました。
僕たちは争いの絶えない世界に生きています。でも、僕はそこの歯車から外れようと思います。争いは自分を優先させようとするからこそ起きるもの。
でも、いつも他人のことを優先しようとする人がいることもまた事実。
僕はそんな生き方をしたいと思います。
誰かの幸せのために、自分の時間を生きる。「情けは人の為ならず」。昔の人はよく言ったものです。
僕の周りにはそんな人たちばかりです。
恵まれている。たくさん与えてもらっている。
僕もおもいっきり返していきたい。
お互いにそんな生き方ができる仲間がいることを誇りに、そして幸せに思います。
本当にありがとう。
丁寧に生きるとは、かっこよく生きること。他人に恥じない生き方をすることだと思います。いつも胸を張っていられる生き方をしたいと思います。
人生は一度きり。そんな言葉をよく耳にしたり、口にしたりしますが、どこか概念的で漠然としたものでした。でも、今回は、それを「具体性」を持って捉えることができました。これも父が身を持って教えてくれたことかもしれません。
人生は一度きり。命はいつか終わります。
僕たちの生という営みは、死という限界を前提としている。
だからこそ、日々の一分、一秒を丁寧に生きる。
ここで立ち止まらなければ、必ず次の"物語"は幸せをもたらしてくれるはずです。立ち止まるわけにはいきません。僕にはまだ元気でいてくれる母もいるし、いつも寄り添ってくれる妻がいるし、大事な弟もいるし、そして、たくさんの仲間がいます。
たくさんの大事な人を、もっともっと大事にするために頑張りたいと思います。
父には、その様子をいつも見てもらいやすくなりました。
「ちゃんと見といてや。父ちゃんに褒めてもらいたかったんや。」
申し訳ないけれど、最期まで僕は父にそう語りかけました。
子煩悩な人でしたから、きっとその願いくらいは叶えてくれるでしょう。
僕は親不孝ばかりで、親孝行はまったくできませんでした。この"負い目"は、僕にとって大きなパワーにしなければなりませんし、出来るはずです。
悲しさ、寂しさがあるからこそ、僕たちはより人生をより良いものにしようと思うことができるのだ、と今回実感しました。
お坊さんが教えてくれました。
「お父さんはこれから天国に行くまでの数々の審査を頑張ります。だから、あなたも今世のことをしっかり頑張りましょうね」と。
父ちゃん、一緒に頑張ろうぜ。
でも、その前に、一回お疲れ様。1年半よく頑張りました。まずは、ゆっくり休んでな。
僕は一足先に始めるよ。
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