切り取られ人工的に彩られた不自然な世界を、自然の中から想う
ここのところ、スマートフォンと距離を取っている。
特にSNS関連は必要なとき以外には、開かないようにしている。
ただシンプルにスマホに手を伸ばさない。
ただそれだけのことで物理的に時間ができるし、頭もクリアになるし概念的な時間も増える。そして、心に平穏が訪れる。
お店を経営する上で、SNSというものとは今のところ切っても切れない関係になっている。「情報の発信」という性質を考えると、これほど便利なものはない。けれど、その一方でただただ無作法、無行儀に垂れ流されるどこの誰かも知らない人の自己顕示欲、承認欲求を満たすためだけのポストによって、こちら側の心(魂といってもいいかもしれない)が汚されてしまうこともまた事実だ。
これは、僕がこんなところに書き記すまでもなく、誰もが例外なく感じていることなのではないだろうか。誰もがSNSを"鬱陶しい"ものだと思っているし、スマホを"危険なもの"だと察知し始めている。
世界はこれから色々なガジェットによって、どんどん便利になっていくは想像しやすい。けれど、なんとなくただシンプルにそういう未来が待っているとは思えなくなってきた。世は二極化していくように思える。そういう流れに"飲まれていく人"と"抗う人"というふうに。世界が政治的に分断しているように、生き方というか在り方自体にも分断が生まれ、それがさらなる分断を生んでいくような気がしている。
かつての「テレビ文化」にこんな考察する人がいた。
これは陰謀論のようで論理がきれいすぎるように感じる考察だけれど、どこか言い得て妙な気もする。これが事実かどうかはさておいて、その機能は間違いなく功を奏している。テレビ文化が衰退する中で、スマホ文化、特にショート動画文化がそれに取って代わり、まさにそれに匹敵するか、それ以上の力を持っていることは間違いがない。僕自身も一度スマホを手に取ると、自分でも驚くほどの時間が過ぎていることに気がついて恐怖感を抱くときそのことを痛感する。
僕は、ベトナムのビントゥアン省という場所のコーヒー農家さんの集まる村を訪れる時、毎回、こんなことを考えている。
この村では現地の携帯会社によっては、電波が入らない。だから、自然にスマホに手が伸びなくなる。今回訪れた時には、「Wi-Fiが入ったんだよ。」と嬉しそうに村のリーダー的存在のTruc(チュック)さんが教えてくれたけれど、僕はあえてそれには繋げずにスマホのカメラ機能以外は使わないようにした。すると、そこに滞在している数時間の間に、僕は僕の足元に重心が戻ってくるような実感があった。
時々、思うのだけれど、僕は、本当に自分の頭で考えて、自分の心で感じ、自分の足で歩いているだろうか?
これだけ他人というものが侵食してきやすいスマホというガジェットが、これだけ自分にピッタリと存在すると他の誰かに自分自身がコントロールされてしまっているような気がしてしまう。
あまりに人間的でない。
僕のことは僕自身がコントロールしたい。
誰かの隷属的支配下には置かれたくないと思う。
自分のことは自分で決める。
自分のことは自分でコントロールする。
そのために必要なことは、ただただシンプルでスマホから距離を取ることだ。そして、その次に自分の心の声に耳を澄ませることだ。
誰かによって切り取られた人工的に彩られた「不自然な世界」から距離を置きたいと心から願っている。
「気がついた人から抜けていく」
僕たちの世界は、まだそれが許されている。
まだそこまでは落ちぶれていない。でも、やがてそれすらも許されない世界もやっていくだろう。本当の衰退はそれからだ。
それまでにそれに耐えうる自分自身を構築せねばならない、と心の底から思っている。
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