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「わがまま」と「あるがまま」

スピ系的に悩ましいのが、「わがまま」と「あるがまま」の違いではないでしょうか。

これ、思考で考えると途中から何が何だかこんがらかってしまって、「なんだ、わがままでいいんだ!」みたいになってしまうこともあると思います。

思考が優位のうちは、仕方のないことだと思います。


しかし、思考=自我なので、思考で考えている限り、自我のコントロール下にあるということを忘れないでください。

自我のコントロール下にあるということは、独善的・独裁的な「思い通りにしたい」がすべてに優先するということですから。


ここまでで氣付かれた方も多いと思いますが、

わがまま = 思考(自我)

あるがまま = 感覚(大我)

になります。


どうしても文字や言葉などの言語に接した途端に思考が働きだすのは仕方がないことなのですが、その思考が「反応からのもの(受動的思考)」だと自我のコントロール下にあります。


思い通りにしたい → 思い通りにならない事態 → 受動的思考(=自我)


つまり、このように「思い通りにしたい(=今の状況では嫌だ)」というのが根底にあって、その状況を何とかしようと人や物事をコントロールするのが自我です。

~のためのような大義名分(私が正しい)があるかも知れませんが、結局は自我の思った通りコントロールしようとする、ということです。


またここには、感情も大きく関わっています。

人をコントロールしようとした場合、よく使われるのが、恐怖や不安などの感情なのはご存じのとおりですが、義憤とか恥というのも強力なコントロール手段です。


コントロールの上手い下手はありますので、全然氣づかずにコントロールされてしまうこともありますし、その逆もありますが、コントロールする方もされる方も「あるがまま」ではいられなくなります

コントロールされていれば「あるがまま」ではいられなくなるのは当然ですが、コントロールする方も「あるがまま」ではないというのは、コントロールという行為自体が自我からのものになるからです。


「あるがまま」には、コントロールする必要もありませんし、感情や思考も入りませんし、だいたい「ああであればよかったのに」のような想いもありません。

つまり、自我と「あるがまま」は対極にあります(二元性)。


そしてわかるのは、「あるがまま」というのは、なろうとしてなるのではなく、「なっている」ということです。

「わがまま」の方は自身の選択も可能です(=自我)。


「あるがまま」になろうとするのは自我です(ここら辺のカラクリは『パラダイム転換と「手放す」』でも書いたとおりですから、詳しくはそちらをお読みください)。


すべからく「何かになろう」とするのは自我で、ということは「なりたい自分になろうとする」とか「本当の自分になろうとする」のも自我なのですが、いくらそれらしく見えようとも結局は自我から行っているので自我どまりになります。


また、反応するのも=自我ですから、何かしらの反応は全て自我ですし、なので「あるがままの反応」というものは存在しません(思考と言葉の中にのみ存在します)。


なぜ自我には「あるがまま」が無いかと言えば、自我は分離を生み出すものだからです。

「あるがまま」には、ジャッジもなく、つまり分離もありません。


対して自我は周りや世界や宇宙をもジャッジし自身を分離するものです。

そのためにあるのが自我なので、変更も矯正もできません。


ですので、自我が悪ということではありません。

悪と思うのは二元に自らはまりに行くようなものです。

また、自我を何とかしようとするというのも自我なので、二重の罠にはまってしまいます。


なので、「自我はあるもの」として扱えばよく、ということは魂への道筋で一番の障害は「自我と同化する」ことになります。


自我と同化すると、全てから分離し、孤独になり、周りは敵だらけの二元世界に閉じ込められることになり、この世は生苦しいものとなります。


こう書いているからと言って、僕に自我が無いというわけではありません、それどころかまだまだいっぱいあります。

濃度は薄まってきていますが、それでも何かに反応して自我は出てきます。

しかしそこであきらめるのではなく、モグラたたきのように出てきた自我を認め手放すことで自我は薄まりますので、ご興味を持たれた方は一緒にやってみてください。


自我が薄まって行くと、「苦しみ」という自我由来の感情も薄まりますので、フラットに楽に生きることができるようになります。


もし万が一フラットでつまらないという方は、自我を濃くして行けば、また感情由来のドラマの中に入れますので好きな方を選べます。


あと、「手放す」について詳しくは『パラダイム転換と「手放す」』に書きましたが、思考から行っても絶対に手放れません。

思考=自我ですから、自我に手放すという機能は無いからです。


自我が薄まり「あるがまま」の濃度が上がってはじめて「手放れる」ということが起きてきます。


「手放す」に絡めて言えば、

自在に手放す(手放れる)ことができるのが「あるがまま」

手放したつもりにしかなれないのが「わがまま」

というのがわかりやすいかもしれません。





思考から卒業して、感覚~感覚を超えた感覚へ!
軽く明るく楽しく

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