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『飯炊き女と金づる男』 #4 たった1枚の案内状

歯科衛生士の金魚(かなめ)が案内してくれた診察室に入ると、極彩色のゴリラが出迎えてくれた。
「あ、千魚(ちか)さん。荷物、その子の背中に置いてください」
ナックルウォークの姿勢で千魚(ちか)を見上げるゴリラの背中は平板で、トートバックやリュックくらいは載せられるようになっていた。

「大丈夫ですよ。殴ったり噛みついたりしませんから」
「えっ、ああ、そうだよね。じゃあ、失礼します」
千魚はそれでも恐る恐るショルダーバッグをゴリラの背中に置くと、真新しい診察台に座った。新築マンションのショールームにあるソファに座る心地がした。

「アメリカン雑貨のお店で見つけて。一目惚れです。かわいくないですか?」
「うーん。正直、びっくりした。傾いてるね、この子」
「ハワイに住んでるウォールアートの作家さんが描いたんですって。けっこう高かったんですよ。千魚さん、ハワイ行ったことあります?」
「一度も…いつか行きたいって思ってるうちにね。もうビキニが着れない歳になっちゃった」
「えー、大丈夫ですよー。千魚さん、スタイル崩れてないじゃないですか。私も行ったことないんですよねー。なんであんなにたくさんの人がハワイに行けるんですかね?こっちはお金も時間も無いのに」
「うちの夫は家族でハワイに行きたいって、500円玉貯金してたよ。今も続いてるのか、分からないけど」

千魚は益次郎のことを人に話すとき、“夫”と言う。“旦那”や“主人”は使わない。養われている感じがして嫌なのだ。

益次郎が千魚を“奥さん”とか“家内”とか言うのも嫌だった。私は家の中にいる人ではないと反発してしまう。

“女房”も嫌いだ。元々は使用人の部屋という意味のはずで、私は世話人ではないと言いたくなる。自分では飯炊き女と言うこともあるのに、人に言われるのは腹が立つ。

「この子、院長先生でしょ?」
「分かります?そうです。見た瞬間に先生の顔が頭に浮かびました」
金魚は少し照れくさそうに、それでも嬉しそうに微笑んだ。

「赤ちゃんとか小さいお子さんとか怖がらないの?」
「買ってから気が付いて心配になったんですけど…でも、みんな喜んでくれてます。いい買い物したなーって思ってます。今はこの部屋に置いてあるだけなんですけど、全部の診察室に置くことに決めました。追加で2体、注文しちゃいました」

千魚は診察台からゴリラの横顔を見直した。
「うん、確かによく見るとかわいいね。つぶらな瞳で遠い目してる。何か考えてるのかな?」
「マウンテンゴリラは森の賢者って言われてるんですって。頭が良くて、実は自分からは攻撃しない平和主義者らしいですよ」

ゴリラの置き物1つをネタに、2人の会話に終わりは来ない。これだよ、これ。これがやりたかったのだと、千魚の気分は上がっていく。金魚は話しながらも、トレイに器具の準備をし、千魚の首元に紙のエプロンをかけた。

診察台の背もたれが倒されると、千魚は大口を開けた。金魚が手持ちのミラーで口腔を確認する。男にも見せたことがない体の一部を覗かれる恥ずかしさも、今日は嬉しく感じられた。

金魚の歯磨きは、優しかった。歯間ブラシを通すのも、デンタルフロスを通すのも、優しかった。がさつな女に毎日いじめのように磨かれている歯は滑らかになり、歯茎も喜んでいた。金魚の施術中に会話はできない。千魚はまどろみの中にいた。

「千魚さん、終わりましたよー。最後にフッ素塗りますねー」
起きてくださーいと言わんばかりの呼びかけで、千魚は戻ってきた。フッ素が塗られ、診察台からの降り際にマスクを付けると、完全にリアルに引き戻された。

「でも、この状況でよく改装しようと思ったね。いろいろ大変だったんじゃない?」
「先生は、前から考えてたらしいんですけどねー。でも、こんな状況だからこそ、背中を押されたみたいです。皆さんが窮屈な思いをしている。せめて来院してくれた患者さんには歯の痛みを取るだけじゃなくて、鬱屈した気持ちも取ってあげたい。一時でも、解放してもらいたいって、言ってました」
「…いい人だね」
「…いい人なんです」
金魚は噛み締めるようにそう言うと、微笑みを浮かべた。

「次回の予約、入れちゃっていいですか?」
「うん、お願い。私にとって必要なことだから。またランチもしようね。ヤマメもイワナも喜ぶ。金魚ちゃんのことは親戚のお姉さんだと思ってるから」
「ほんとですかー?じゃあ、また連絡します。ハガキ送りますね」
金魚はペロッと舌を出した。ヤマメもイワナも生まれたときから金魚に口の中を覗かれている。おむつを替えてもらっていたようなものだ。

「LINEでいいよ」
「返してくれます?」
「返すし」
「じゃあ、約束の握手」
「指切りじゃないんだ」
「はい。握手がいいです」
金魚はビニールの手袋を外し、右手を差し出した。千魚は、さっきまで歯を磨いてくれていた優しい右手に愛おしさを感じた。そして、感謝の気持ちを込めて、その手を握った。

人の温もり。いつ以来だろうか?ヤマメもイワナも大きくなった。毎日手をつないで歩いていた日々が懐かしい。益次郎と最後に手をつないだのがいつだったかは、もう思い出せない。

温もりが手のひらから腕に、体全体に、そして頭に染み渡った。涙が出た。

「…人の手に触れるのがこんなに嬉しいなんて。1年間、誰にも触れなかったし、触れさせなかった。触れ合ってこなかった。私、歯科衛生士だから。怖かった。気が付かないうちに罹患して、気が付かないうちに誰かにうつしちゃうんじゃないかって。怖かった。LINE送って、ごめん、今は行けない、とか返事来たらどうしようって。…だから…ハガキ送ったんです。ハガキだったら、既読とか分からないじゃないですか。返信なくて当たり前だし。あの案内状、千魚さんだけなんです。描いて、コンビニでコピーして、印刷したように見せかけて。1枚だけなんです…」

千魚ではない。金魚だった。涙が、重圧が、溢れ出た。

ハガキを描いて、コンビニでコピーする。印刷したように見せかけて投函する。金魚の心にとっては、急ぎで、必要な行為だった。千魚が金魚を求めるよりも早く、金魚が千魚を求めた。

「大丈夫だよ。もう大丈夫。今、約束したから」
両手で包み込んだ金魚の手から、青いムスカリの花たちがふわりふわりと咲き始めた。

<続く>

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