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イートインで逢いましょう(第5/6話)/小説  創作大賞2024


第1話

第2話

第3話

第4話



5.


 あの出来事以来、僕の生活は何かが変わってしまった。


 学校の授業を受け、部活にも参加するけれど、ただそれだけ。延々同じことを惰性で繰り返す。そんな日々が続いた。
 例のイートインスペースにはもはや行く意味がないので、行くのをやめてしまった。その代わり、僕は毎日自炊をした。そちらの方は日々上達し、今ではずいぶん様々な料理を一人で作れるようになった。人間というのは一つのことを続ければそれなりの成果があるものだと、僕は無感動に実感した。

 あの後間もなくして、ナオコさんから電話があった。

 僕に対して、丁寧に彼女は感謝を述べた。
 あの日僕に会えなかったらどうなっていたか分からない。いずれきちんとした形でお礼をしたい。そう彼女は言った。

 そして話題は、タマキさんのことに及んだ。

「全部が全部、教えられるわけじゃないけど」
 そう前置きした上で、それでも彼女は一つずつ説明してくれた。



 タマキさんがあのようなことになってしまったのは、やはり仕事が原因だったという。

 ナオコさんは、あの後すぐにタマキさんの会社に連絡をした。
 タマキさんの携帯電話には何十件もの着信履歴が残っていて、それが彼女の上司からであることは明らかだった。

 今彼女はこういう状況です。彼女は一人暮らしで家族とも離れているので、やむを得ず私が代理で連絡しています。当分の間、そちらに出勤するのは難しいと思います。
 そんな内容を努めて冷静にナオコさんは説明した。

 電話を受けた人物は「やはりそうでしたか」と言って、さほど驚く様子も無く今回の報告を受け入れた。諸々の手続きはあるが、全て事後で構いません。とりあえず当面は、心身の休養に専念させてください。

「あと可能なら、彼女に伝えて頂きたいのですが」と彼は言った。

「無理をさせて申し訳なかったと。しばらく仕事のことは考えなくても良いから、ゆっくり休んでください、と」

 それら一連のやり取りは、まるで当初からこうなることが予想されていたかのようだった。
 「こうなる前に誰かが彼女を助けられなかったのか」とナオコさんは密かに憤ったが、その人物の発する疲労と諦観の入り混じった声を聞くと、それ以上何も言う気にはならなかった。

 ナオコさんは、タマキさんに改めて退職を勧めた。

 タマキさんも概ねそれを受け入れた。しかし、これはすぐに決着がつくような単純な話ではないのだと彼女は言った。

「もちろん私も手伝うけど、どうしてもやりとりはタマキになっちゃうからね。そういった事に取り掛かるのはもう少し後かな。こういうのってすごく消耗するのよ。時間も労力も」と、彼女は落ち着いた口調で言った。

「タマキさんは、一度ご家族の元へ帰った方が良いのでは?」
 と、僕はかねてから思っていたことを伝えた。どう考えても彼女には家族の長期的な支援が必要なように思えた。
「うん、それはその通りだと思う」と、ナオコさんも言った。

「でも、そういうわけにもいかないの。あの子昔、両親との間にいざこざがあって…実家には頼らないって、心に決めているみたいなの。わざと離れた大学に入ったのも、それが理由みたい」

 その話を聞いて、僕は少し意外に感じる。彼女ような快活で愛情に溢れた人物がその家族関係に問題があるというのは、どうにも結びつかなかった。

「そうだったんですか」
「そう。これ以上は私からは話せないけどね…今思えば」
 と、彼女は言った。

「そういう『いざというときの逃げ場』が無かったことも、あの子が追い詰められてしまった一因かもね」

 僕はそれ以上、何も言うことができなかった。



 何度目かのやり取りの際、ナオコさんが「あの子の連絡先、教えるよ」と言った。

「良いんですか」と僕が言うと、
「良いよ」と彼女は平然と言った。

「大丈夫、タマキから許可はとってるから…あの子は君のことをとても気にしてたし、それに謝りたいとも言ってたし。遅かれ早かれ連絡先は必要だと思うな」

 そうナオコさんは言った。一体タマキさんが僕に何を謝ることがあるのか、僕には全くもって分からなかった。

「ただ、あの子からの返信は期待しないでね。そういうことができるようになるにはもう少し時間がかかりそうだから」
「…そうなんですね」
「あ、でもこちらから送ったものについてはちゃんと読めるから。一方通行になるかもしれないけど、きみからも何か連絡してあげて欲しいの」

「わかりました。やってみます」と、僕は確証が持てないまま承諾した。

「良かった。あと何か聞きたいことはある?」
「一つだけ良いですか」と僕は言う。

「…俺はタマキさんに、どのように接すれば良いんでしょう?」

 その問いに対して彼女は少し考える。しかしすぐに
「それについては、今までどおりで良いと思うよ」と言った。

「今までどおり、ですか」
「そう。『相手のことを思いやって、どうしたら力になれるかを考える』」
 そう言う彼女の声は、穏やかだった。

「今までずっときみが、自然にやってきたことだよ」


 はじめてタマキさんにメッセージを送る際、やはり僕は大いに悩んだ。

 悩んだ結果、僕はこんなメッセージを送ることにした。

 タマキさんに会えなくなって、なんだか毎日が味気なくなってしまいました。イートインでのあの時間は、僕にとっても大切だったみたいです。

 あなたに会えないので、あれ以来あの場所には行っていません。その代わり、僕は毎日自炊をしています。いくつかの料理は自分でも満足できるものが作れるようになりました。野菜もきちんと摂るようにしています。そうすると、やはり体の調子も良いみたいです。それだけが唯一きちんと続けていることです。

 僕が言うのもおかしなことですが、何も心配することなく、しっかり体を休めて下さい。また連絡します。

 僕は長い時間をかけてその文章を作り、何度も見直した後に送った。しかし、やはり返信が返ってくることは無かった。

 それは最初から覚悟していたことだったのに、その事実はやはり僕を少し悲しい気持ちにさせるのだった。



 タマキさんへメッセージを送ってしまうと、「おや」と思った。気づけば僕は、もう完全にやることがなくなってしまった。

 立て続けに連絡をするのもどうかと思うし、状況が変わるまでに時間を要することもある気がする。
 そう思うと、少なくとも今僕にできることは全て終えたような気がした。それで僕は、なんだかすっかりやる気がなくなってしまった。

 しかしこちらの都合に関係なく、次の日は訪れる。

 僕はしかたなく空虚な気持ちで学校へ行った。学校では早くも受験のことが話題に上がっていた。高校2年の夏というのは一般的にそういう時期なのだと、教師は言った。

 「進学はしたいけれど、必要以上に父の世話になりたくはないな」と僕はぼんやり思った。そしてタマキさんのことを思い出した。彼女は家から離れるために、敢えて遠くの大学を選んだという。
 現状の僕の成績は良くも悪くもなかった。今の成績を維持すれば行ける大学もあるだろうが、多くはないだろう。選択肢を増やすためにはそれ相応の成績が必要であることは、容易に想像がついた。

 それで僕は、柄にもなく勉強に打ち込むことにした。

 いつになく真剣に授業を聞き、ノートをとり、次のテストに備える。やってみると勉学への没頭は、思いのほか僕の気を紛らわせてくれた。古文法や三角関数や基本動詞の活用について頭を巡らせているとき、僕はタマキさんのことを一時的に考えずにいられた。

 授業が終わり部活動の時間になると、僕はこちらも今まで以上に真剣に打ち込んだ。走るというのは、それはそれで頭を空っぽにするには最適な運動だった。
 少し前まであれほど停滞していたタイムは、ここ最近ぐんぐん更新されていた。健康的な食事と無心で没頭することがこうした成果に繋がるのだと、僕はしみじみと感心した。

「お前、絶好調じゃないか。どうしたんだ」と、先輩は言った。
「どうも」と、僕は息を整えながら言った。



 「タマキさんに、料理を食べてもらうのはどうだろう」
 ある時ふと、そんなことを思った。

 それは学校帰り、例のスーパーで買い物をしているときだった。イートインの利用をすっかりしなくなった、例のスーパーである。

 ともかく、売り場で卵を手にとったまま僕は唐突にそう思った。
「迷惑だろうか」という考えが一瞬よぎったが、それについてはあまり深く考えず、僕は料理を作ってしまうことにした。

 何を作ろうかと食材を選びながら、僕はナオコさんの言葉を思い出す。

「結局のところ私たちは、何が正しいかなんてわからないのよ。だから、正しいと思ったことをやるしかないの」

 その言葉は、僕の大胆な思いつきを後押しする傾向があった。

 購入した食材を台所に持ち込み、僕はさっそく調理にとりかかる。

 大根や人参、牛蒡といった根菜の皮をむいて、乱切りにする。
 それらを少し炒めてから砂糖、醤油、みりんといった調味料を加え、落し蓋をしてしばらく煮込む。
 最後に煮汁の味をととのえると、シンプルな根菜の煮物が出来上がった。

 煮物であることに深い理由はない。なんとなく今の彼女には胃に優しいものの方が良い気がしたからだ。

 さっそくご飯と味噌汁も用意して、できあがった煮物の味を見る。
 おいしい。甘辛くて素朴な味がする。しみじみと野菜の甘さがわかる。少し冷まして具材に味が染みれば、もっとうまくなるはずだ。持っていくのは明日、学校が終わってからにしよう。

 しかし保冷バッグと保冷剤の準備をしながら、僕はまたしても不安になってしまう。

「もし迷惑だったら?」「彼女の回復を急かしていると思われたら?」と、やはりやめた方が良いような気持ちになってくる。でも僕は、再度その懸念を振り払う。

 結局何が正しいのかなんて、誰にもわからない。
 他人に関わる以上、不安なのは当たり前だ。
 彼女が僕におにぎりをくれたときだって、そうだったに違いない。

 そう考えて僕は、リスクを冒して彼女に介入する決意を固くする。

 …でも万が一迷惑だった時のことも考え、せめてもの配慮で僕はごくごく小さなタッパーを選ぶ。

 小さなタッパーに煮物を取り分け、冷蔵庫に入れた。
 そうしてから、思いのほか煮物が余ってしまったことに僕は気づいた。それらを別の皿に盛り、どうしたものかと思いを巡らせる。

 やがて僕は紙とペンを探し、リビングのテーブルに書き置きを残す。

煮物を作りました。冷蔵庫にあります。
たくさん余ってしまったので、良ければ食べて下さい。

 これらの行動に特に深い意味はなかった。余って一人では食べきれないから、良かったらどうぞ。それだけである。
 しかし経緯はどうあれ、こちらから父に何かを働きかけたのは随分久しぶりだと僕は思った。

 次の日の朝、僕はそっと冷蔵庫の中を覗いてみた。
 昨晩の時点で大量に残っていた煮物は、少しだけ食べられた形跡があった。



 翌日学校を終えて帰宅した僕は、用意していた保冷バッグに煮物の入ったタッパーと、それに保冷剤を入れ、すぐにタマキさんのアパートへ向かった。
 家から彼女のアパートまで、歩くと大体15分ほど。その道中やはり何度も「やめるべきでは」と不安になったけれど、僕はその度にその懸念を振り払い、自分に言い聞かせた。ダメならダメでしょうがない。それでも関わることを放棄するよりはずっと良い。

 彼女のアパートには、すぐに到着した。

 あの日以来はじめて訪れた104号室のドアの前で、僕は何とも言えず緊張する。辺りはしんとしていて、遠くに国道を走る車のエンジン音が聞こえるだけだった。部屋の中に彼女がいるのか否かはわからない。

 僕は持ってきた保冷バッグをドアノブにそっとかける。そして、すぐにその場を後にした。今来た道を引き返しながら、僕はタマキさんに送るメッセージを考える。 

煮物を作りすぎてしまいました。
ドアノブにかけておきます。良かったら食べてください。
まだそんな気分じゃなければ、無理はしないでください。
その時はすぐに回収するので、遠慮なく言ってください。

 まさか「料理を作りすぎた」などという定型分を自分が使うことになるとは思いも寄らなかった。案の定彼女からの返事はなかったけれど、もう以前のように悲しい気持ちにはならなかった。
 彼女はきっと回復している最中なのだ。僕はそう考えることにした。

 翌日僕は、再び104号室の扉の前まで来ていた。もし保冷バッグがそのまま残されていたら、回収しようと思ったのである。

 しかし、昨日かけたはずのバッグはそこにはなかった。

 …ということは、タマキさんが僕の料理を受け取ったということになる。嬉しさと不安で、僕はなぜかこの場から逃げ出したいような気分になった。
 しかし落ち着いてよく考えてみると、本当に迷惑であれば彼女はナオコさんにそれを伝えるのではないか。ということは、少なくとも迷惑ではないということだろうか。
 そんなことを考え、僕は自分の心の平静を保つよう努めた。

「タマキから?何も聞いていないよ」
 と、電話越しにナオコさんは平然と言った。

「何も…ですか?」
「うん。だってあの子、まだ電話もちょっと難しいみたいだから。やり取りって、直接会ったときだけだもの」
「お二人は、どれくらいの頻度で会ってるんですか?」
「週に2回…多くて3回ってとこかな。こっちも仕事があるからね。本当は毎日様子を見に行きたいんだけど」

 これは意外だった。てっきり毎日会っているのかと思った。…しかし、考えてみれば確かにそれはそうだった。

「タマキさんは一人で大丈夫なんでしょうか…もし何かあったら」

 そう僕が言うと、ナオコさんはしばらくうーんと考え、しかし「大丈夫だと思う」と言った。

「たぶん、君が思うよりタマキはずいぶん落ち着いてるよ。一緒にご飯も食べるし、話せば笑うし。そりゃ以前ほどの元気はないけど」
「あ…そうなんですか」
「うん。だからそんなにビクビクしなくても良い気がする。仮に嫌なら私に言うだろうし…とりあえず、君が思うようにやってみたら?それでだめなら謝れば良いのよ」と、彼女は言った。

 ありがとうと言って、僕は電話を切った。


 それから僕は、大体週に1度ほどのペースで料理を作り、タマキさんの家に届けた。    

 煮物からはじまったそれは、きんぴら、ほうれん草の胡麻和え、肉野菜炒め、煮込みハンバーグと、回を重ねるごとに複雑な料理になっていった。そして同時にボリュームも増していった。

 料理を届けると、毎回僕は短いメッセージを送った。相変わらず返信は無かったけれど、ナオコさんから「やめた方が良いかも」と言われることも無かった。

 たまに料理を届けた翌日に104号室を確認しに行ったけれど、前日ドアノブにかけられた料理は、翌日には必ず無くなっているのだった。それで僕はなんだか許可されたような気になって、次の週にはまた新たな料理を作り、そして届けた。


「お金、足りるのか」

 父にそう言われたのは、月末に食費を渡された時だった。

「え?」
 と僕は、不意を突かれたような声が出てしまう。

「ほら、最近色々作ってるだろう。以前と同じでは足りないんじゃないか」
「あぁ…それは大丈夫。むしろ自炊の方が安いよ」
「何、そうなのか」

 父はその辺りの感覚に疎い。家事全般を丸ごと母に任せていたものだから、食材の値段がわからないのだ。実際母が出ていって以降、彼の食事は専ら外食ばかりで、僕はそちらの方がよほど食費が気になっていた。

 だからだと思う。僕は気づいたら

「明日の夕食、父さんの分も作ろうか?」

 と、口に出して言っていた。
 あまりに予想外の言葉だったのだろう。父はきょとんとした。

「いや…明日はカレーを作るつもりで。1人分も2人分も変わらないから、良かったら」と言うと、
「そうか」と父は少し微笑んだ。

「じゃあ頼もうかな。最近いい加減外食にも飽きててなぁ」

 そんな流れで、僕は父と食事をすることになってしまった。



 その日僕は、努めていつも通りに調理にとりかかった。

 まず人参、じゃがいもを3センチ程度の乱切りにし、玉ねぎは細切りにする。鶏肉は一口大に切り、塩胡椒で下味をつけておく。玉ねぎを炒め、色がついたら鶏肉と他の野菜も入れて炒める。しばらくしたら水を加えて少し煮込み、浮いてきた灰汁をとったら、そこにルーを入れる。

 ルーの箱に書いてある手順を忠実に再現したレシピだった。実際、「レシピを忠実に守り、自己流のアレンジをしない」というのは、これまでの僕の調理の基本方針でもあった。…しかしその実態は、アレンジできるほど応用力がまだ無いだけだった。

 こうして、至極順調にチキンカレーが完成した。
 続いて僕はレタスを手で千切って水に晒し、トマトを包丁で切る。それを皿に盛り付けただけの簡単なサラダを2人分作り、冷蔵庫に入れておく。

 ここで作業がひと段落したので、僕は時計を確認する。時刻は7時を少し過ぎていた。普段父が帰るのは9時以降なので、もう少し待つだろうと僕は予想した。

 …しかし予想に反して、父はすぐに帰宅した。

「えっ、早いな」と僕は思わず言った。
「そりゃあお前、外で飯を食べてないからな」と父は言った。

「それに、テツを待たせても悪いだろう。ちょっと急いで帰ってきたよ…といっても、こんな時間だが」と上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら父は言った。

「お待たせ。さあ、食べようか」



「お、うまいな」と一口食べて父は言った。

「いや…うまいな。本当にうまいな」と続けて二口、三口と口に運ぶごとに、父は驚いたように呟いた。

 確かにとても美味しかった。肉も野菜もごろごろして食べ応えがあるし、スパイスの香りが食欲をそそる。特に特筆すべき点はないのだけど、期待に対して百点満点、何も文句のつけようがないカレーだった。

 …しかし、それにしてもやけに美味しい。その理由について考えを巡らせる内に、そういえば店や弁当じゃない手作りのカレーを食べること自体、ずいぶん久しぶりだと僕は気づいた。そうした反動もあっての格別の美味しさだった。

「ところで、なんでまた自炊をはじめたんだ?」
 と、父が食べながら僕に訊いた。

「今までずっと、買って食べてただろう」

「えっと…最初はカップ麺とかを買って食べてたんだ。食費を浮かせて、残りを今後のために貯金しようと思って」と、僕は答える。

「でも今思えば、それは問題があって。実際その時は気づかなかったけど、常に空腹だったんだよ。学校でもなんか力が出ないし」
「ほう」
「…それで気づいたんだけど、今すべきなのは、少しばかりのお金を貯めることじゃなくてさ。野菜を手に取って購入したり、それを自分で調理したり。そういった体験を重ねることの方が、貯金よりもずっと自分のためになるんじゃないかと思って」
 と、必死で言葉を探して僕は説明した。

 それに対して父は、「お前…頭良いな」とまるで友達のようなコメントをした。

「お前それ、自分ひとりで気づいたのか。だとしたら凄いぞ」
「自分ひとり、ではないよ」と僕は正直に答えた。

「ある人が僕に教えてくれたんだ。僕ひとりじゃない」
「へぇ。その人ってのは、若い人か」
「うん、若いね。僕より年上だけど」
「そうか。その人は何かこう、人生において極めて大切なことを分かっている人だな」と、父はサラダのトマトを口に運びながら言った。

「大切にした方が良いぞ。その関係は」と父は言った。

「うん。そのつもり」と僕は言った。


 食後、僕は自分の部屋で横になっていた。

「洗い物はやるよ。作ってもらったしな」と父は言った。

 僕はさきほどの父との時間を頭の中で反芻していた。なんだか父とこんな距離感で話をするのは初めてだった。というか、父ってこんなにフランクだったっけと僕は思った。

 ベッドに寝転がり天井を見ながら、きっと離婚以来、僕は変に父を避けていたのだなと思った。父としても、僕をそっとしておくべきだと思ったのだろうか。あるいは、両親の離婚によって子どもを傷つけてしまったという負い目があったのかもしれない。

 でも実際のところ、僕はそれほど傷ついていたわけではなかった。僕はあの一件で、ただ「自立しなければ」と強く意識しただけだったのである。

 …しかし、と僕は思う。自立とは、おそらくそういうことではなかったのだろう。

 本来の意味で自立とは、父との距離をとり何でもひとりでやろうとすることではなく、むしろ父とコミュニケーションをとり、将来協力してもらう信頼関係を築くことだったのではないのか。

 その事実に今この瞬間気づき、僕は愕然とした。食事のことに続き、僕はここでも勘違いをしていたのかと思った。

 あのとき食事が終わった後で、僕は
「あのさ、卒業したら大学に行きたいんだ」と父に伝えてみた。

「おお、そうだな。うん、良いぞ」
と、父は実にあっさりとそれを了承した。

「大学に行くのは、俺も賛成だ。あまりに学費が高額なところじゃない限りは、ある程度なんとかなるだろ。テツが良く考えて、行きたいとこにいきなさい」と彼は言った。

 ああ、こういうことかと僕は思った。
 自分が学費をなんとかするのではなく、自分が表立って他者に働きかけることで、助けを得られる。
 それが本当の意味での自立だと思った。

 まだまだ知らないことばかりだと、僕はうなだれた。そしてこれからも、こうして幾度となく間違っては気付かされるのだろう。

 そうしてごろりと寝返りをうった僕は、そのまま何の気なしに携帯の画面を目にする。そして、一瞬自分の目を疑う。
 がばっとベッドから跳ね起き、もう一度よく確認する。間違いない。

 画面には以下の文字が極めて事務的に表示されていた。


新着メッセージ一件
一ノ瀬 環




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