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イートインで逢いましょう(第2/6話)/小説  創作大賞2024


第1話



2.


 次の日は、学校にいる時から、なんだか落ち着かなかった。
 僕は今日この後、タマキさんと待ち合わせている。夜7時に、あのスーパーマーケットで。でも、何のために?彼女はどういうつもりだろうか。

 いくら考えても分からないので、やがて僕は考えるのを諦め、あとは約束の時間まで、その一日をただやり過ごすことに集中した。
 いつも通りに授業を受け、放課後には部活動に参加する。ストレッチ、ウェーブ走、ダッシュといったルーティーンの後に、3000mのタイムを測定する。タイムに大きな変化はない。短縮されてもいないし、延びてもいない。ここ数ヶ月、ずっと同じ状況が続いている。

 そうこうしている内に部活動が終わる。時刻は6時。今から出ると少し早いが、待ち合わせ場所はイートインスペースだ。いくらでも待てば良い。
 手早く清潔な服に着替え、部室に残っている先輩に「お疲れ様でした」と声をかける。彼は「おう」と手を挙げ返答してくれる。これもいつものやりとり。そうして僕は、部室を後にする。

 約束のスーパーに向かう道中で、僕はあの日、タマキさんに話した自分の境遇について考えた。

 両親から離婚を告げられたあの日、僕は自分がいかに無力な子どもであるかを思い知らされた。それはまるで突然頭から冷水を浴びせられたような感覚だった。
 当時の僕には、父と母のどちらに身を寄せるか選ぶことしかできなかったし、何より僕は自身の生活がこれほど容易く覆ってしまうことを、全くこれっぽっちも予想していなかった。「両親の離婚」という事件は当時の僕の生活を根底から揺るがすのに十分で、それに対して当時15歳の僕は情けないほどに無力で、無防備だった。

 もしも僕に一人で生活できる能力と経済力があれば、こうした事情に左右されることなく、今まで通りやっていけただろうか。そう思うと、「自立しなければ」と強く意識しないわけにはいかなかった。親に頼ることなく、なんとか一人でやっていけるようにならなくては。今はまだ無理でも、せめて準備だけでもしておかなくては。

 高校の部活で陸上部を選んだのはそういった理由もある。何をするにも体力があるのに越したことはない。それに、貯金についてもそうだ。いざというときにお金があるのと無いのでは、全く状況が違う。たとえ千円でも、それだけで少なくとも一日は空腹から逃れることができる。

 そんなことを考えながら歩いていると、なんだか重い気持ちになった。
 やがて僕は例のスーパーマーケットに到着する。時刻は6時30分。タマキさんの姿はまだ無い。僕はまず売り場へ向かい、ペットボトルの水を一本手に取る。レジで購入するといつもの席に座り、イヤホンを装着する。
 そして僕は、彼女が現れるのをじっと待つ。

 平日の夕暮れ、僕はタマキさんと二人で大通り沿いの歩道を歩いていた。

「おまたせ」と、あの後間もなく彼女は現れた。
 そしてすぐに「じゃ、行こっか」と言い、僕を連れて店を出た。タマキさんが何を考えているかは分からないけれど、その足取りには全く迷いが無かった。僕はそんな彼女の後を、よく躾けられた犬のようについていった。

「昨日の話だけどさ」

 と、歩きながら彼女は言った。

「君があそこで食事をしている理由は分かったよ。でも、もっと好きに食べれば良いのに。お金はもらってるんでしょ」
「うーん…そうなんですけど」

 と、僕はよく考えて答えた。

「なんと言うか、いざという時のお金を貯めるため、というのが一つ。あとは、胃を小さくしておくため」
「胃を小さく」
「はい。胃が小さければ、少しの量でも満足できると思って」
「うん」
「そうしたら、長期的に食費を抑えられるじゃないですか」
「なるほどねぇ…あ、ほらついたよ」 

 彼女はそう言い、僕はふと顔を上げた。そこはオレンジ色の看板が特徴的な、牛丼屋のチェーン店だった。

「ここって…牛丼屋ですか?」
「そう。今日はここで夕食を食べましょう」

 そう言うと彼女は店に入っていった。

 店内には仕事終わりのサラリーマンと思しき男性が4、5名ほど、カウンター席に座っていた。僕とタマキさんは二人掛けのテーブル席に着席した。
 僕たちの姿を見てお冷を運んでくれた店員に、彼女はすかさず「注文お願いします」と声をかけた。

「からあげの定食に、野菜サラダ。あと、お味噌汁は豚汁にしてください」

と、淀みなく彼女は注文した。

「それを、二人分」
「え?」
「良いから、良いから」

 と彼女はにっこり言った。
 店員が行ってしまったのを確認してから、僕はタマキさんに「俺、そんなに食べないですよ」と伝えた。

「言ったでしょう。胃を小さくしてるって」
「でもさ、テツはここのからあげ食べたことある?」
「無いですけど」
「美味しいよ。揚げたてで。たまに食べたくなるの」
「…」
「ごめんごめん。今日だけ私に付き合ってよ。女一人で牛丼屋って、結構恥ずかしいんだよ」

 そう言って笑う彼女を見ると、それ以上追及する気にはならなかった。
 僕は、改めて彼女の出たちを確認する。いつものパンツスタイルのスーツに、大きな肩がけのビジネスバッグ。一体何が入っているのだろう。重さだけなら僕のスポーツバッグとあまり変わらないように思える。まだ若そうに見える彼女がそれほど多くの書類を持ち帰らないといけないほど、仕事が大変なのだろうか。

「タマキさんって、いくつなんですか?」

 と何の気なしに聞いて、すぐに「すみません」と謝罪した。同じ高校生ならともかく、大人の女性に歳を聞くのは失礼かもしれない。

「いいよ、別に。24。テツは?」
「今年で17歳です」
「17か。微妙な年頃だねぇ」
「微妙、ですか?」
「うん。大人か子どもか一番曖昧な年齢じゃない? 17って」

 なるほど、そうかもしれない。

「でも、来年には大人です。18なので」
「え?あ、そっか。成年年齢が変わったんだっけ」
「はい」
「なんだかずいぶん乱暴な話だよね。ある日を境に、突然『今日から18歳は成人ですから、よろしく』ってことでしょ」
「はい。でも俺はありがたいです。早く大人になりたいので」
「大人になりたいんだ」
「はい」

 そう言う僕を、彼女は興味深そうに眺める。

「でも、お酒は飲めないでしょ?18歳でも」
「はい。喫煙も」
「じゃ、一体何ができるようになるの?」
「ええと、投票とか」
「投票かぁ」

 そんな話をしていたら、注文の品が運ばれてきた。

 その定食は見るからに立派なものだった。一番大きな皿には大ぶりのからあげが4つも並んでいたし、お椀には豚汁がなみなみと注がれていた。それにサラダに、温かそうなご飯。それらはどう見ても、普段の僕の夕食の2倍以上の量があった。

「この組み合わせの凄いところはね」と髪を束ねながらタマキさんは言う。「鶏と豚をどちらも一食で食べられるところなの。なんか贅沢じゃない?」そう言って彼女は箸を僕に差し出す。「さあ、食べよう。温かいうちに」

「いただきます」と言って、我々は定食にとりかかった。僕はとりあえず大きなからあげを一つ箸で取り、かぶりついた。

「うわ、うまい」と、思わず声が出た。

「ね。美味しいでしょう」と、タマキさんは満足そうに言って、自分もからあげを齧った。からあげは揚げたてで、油断すると火傷しそうなくらい肉汁が溢れてきた。下味もしっかりついていて、香ばしい。
 僕はからあげとご飯を、夢中で口に運んだ。それらをゆっくりと咀嚼して暖かい豚汁を啜ると、胃の中がじんわり温かくなるのを感じた。まるで身体全体が喜んでいるような感覚だった。なんだか目の奥さえ熱くなった。食べながら僕は、ある事実に気づかずにはいられなかった。

 そうか。僕はこんなにも、空腹だったのか。

「どう、美味しい?」とタマキさんが言った。
「すごく美味しいです。…でも、それより」と、僕は口の中のものを飲み下してから言った。
「俺、なんか前にタマキさんに言われた意味がわかりました」
「私が言ったこと?」
「カップ麺だけじゃダメだって」
「あぁ、言ったね」と彼女は少し笑った。

「でも、本当にそう思うよ。君が毎晩カップ麺だけ食べてるって聞いたとき、なんて無茶なことをって思ったんだから」

と、サラダを丁寧に口に運びながら彼女は言った。

「思うんだけど、食事って、そんな簡単に削って良いものじゃないよ。毎日どれだけ生活が大変でも、せめてご飯のときだけは『美味しいなぁ』『幸せだなぁ』って力を抜いてあげる。そういう役割もあると思うの、食事って」

 そう言った後に、「まぁ私も、最近はイートインでさっと済ませがちだけど…」と、頭を掻いた。

「急いで食べなきゃいけないことも、仕方なくコンビニで済ますこともあるけどさ。やっぱり一日一回くらいは『あぁ美味しいなぁ』って幸福を感じながら食事しないとって思うよ」

「…そんなこと、考えたこともなかった」と、僕は正直に言う。

「そうでしょう。それに、テツは若いんだから。これからまだまだ成長するし、筋肉だってつけなきゃ」
「あ、筋トレはしてます」
「じゃ、なおさら。カップ麺だけじゃだめだね」
「…以後気をつけます」
「はい。そうしてください」

 そう言うと、彼女は口に手を当てて愉快そうに笑った。


 それから我々は時間をかけて定食を食べた。
 それらを口に運ぶごとに、これまで自分に不足していた栄養素が補われ、体中の細胞が喜んでいるような気がした。僕はご飯を二回もおかわりした。
 一方でタマキさんは、お腹いっぱいになってしまったから、からあげを一つ食べてくれないかと僕に頼んだ。

「これって、また例の気遣いじゃないですか?」と僕が疑うと、
「いや、これは本音。本当に苦しいから、助けてください」と彼女は言った。

 食べ終わって一息つくと、タマキさんはさっさと二人分の会計を済ませてしまった。僕はもちろん自分の分を出しますと申し出たけど、彼女は頑なに受け取ろうとしなかった。
「誘ったのは私、メニューを選んだのも私。そしてなにより君は高校生で、私は社会人。働いて、お給料をもらってる」と彼女は言った。

「それに、そのお金はお父様からもらったもので、君は毎日空腹に耐えながらそれを節約していた。そうでしょ?」

 全くもってその通りだった。僕は素直に引き下がり、「ごちそうさまでした」と頭を下げた。「よいよい。頭を上げい」と、彼女は言った。

 店を出ると、「じゃあ私はあっちだから」とタマキさんは言った。
「送りますよ」と僕は言ったけれど、
「いらない、いらない。本当にすぐそこなんだ。ほら、あそこのアパート」と、彼女はある建物を指差した。本当に歩いて1分もかからないような場所に、そのアパートはあった。

「ここ、近くて良いですね」と僕が言うと、
「そうでしょう。実は常連なんだ。ここだけの話」と彼女は言った。

 そうして、我々は各々の帰路についた。



 次の日部活が終わると、僕はさっそく行動を開始した。

 スーパーでいくつかの食材と、調味料と、それに米を購入し、イートインコーナーには寄らずそのまま帰路につく。
 家に帰ると、まずは台所の掃除にとりかかった。それをしないことには、自炊など遠い夢の話だった。積まれた書類や、なんだかわからない紙袋を全部どかし、リビングの床に置いてしまうと、一応作業スペースのようなものが確保できた。

 雑巾で流しやコンロ、それに棚の上を念入りに拭き、溜まった埃を一掃する。それでようやく、キッチンには幾分親密な気配がもどってきた。それはかつて母親がそこにいた時には当たり前に存在して、しかし彼女がいなくなると同時に失われてしまったものだった。

 購入した米を、米びつに入れる。そこから計量カップを使って1合分取り出し、流水でとぐ。水を目盛りまで注いだら炊飯器に入れ、ボタンを押す。
 やってしまえば、米を炊くことは拍子抜けするほど単純な作業だった。あとは、簡単に味噌汁を作ろう。おかずは先ほど購入した納豆や生卵で十分。はじめから複雑な料理にすると、かえって自炊のハードルを上げてしまう気がする。焦る必要はない。一つずつ、身の丈にあったものから始めれば良い。

 こうして、質素な夕食が完成した。
 炊き立てのご飯に、豆腐とわかめの味噌汁、納豆に生卵。なんだか清貧な文豪の朝食のようだなと僕は思った。

 はたして初めて自分で炊いたご飯は、驚異的にうまかった。もちもちして、温かい。米ってこんなに美味しかったっけ…。
 考えてみれば、ここ最近で口にするご飯といえば、包装されたおにぎりや電子レンジで温めたお弁当であって、炊き立てのご飯なんて最後に食べたのがいつだか思い出せないくらいだった。
 しばらく僕は、無心でご飯を頬張った。おかずは納豆と生卵のみだけど、何も問題ない。どんなに質素でも、それらはカップ麺だけの夕食よりか、随分まともな食事のように思えた。

 一合分のご飯をすっかり平らげてしまうと、僕はずいぶん満たされた気持ちになった。そのまま横になりたい気持ちをぐっと堪え、ともかくお皿だけ洗ってしまおうと、食器を持って流しに向かう。

 皿を洗いながら、僕は考える。ともあれ、これで最初の一歩は踏み出したわけだ。ご飯も炊けたし、味噌汁だって作れた。立派な自炊と言って良いだろう。食費としても一食分として考えれば、決して高くない。十分に節約できている。

 こうなってしまうと、なぜもっと早く自炊を始めなかったのかと不思議に思った。しかし、すぐにそれは父の存在が原因だろうと思い至った。
 自炊を始めれば、何か追及されるかもしれない。あるいは父と食事を共にする可能性だってある。そしたら、一体何を話せば良い?僕に対して取引先にするように頭を下げた、あの父と。

 僕は無意識にそういった一切合切に蓋をして、あくまで与えられた枠組みの中で、自分なりにやりくりしようとしていたのだ。この狭い家の中で、父と僕がお互いに線引きした領域から、けっしてはみ出さないように。
 暗闇で手探りをするような親子の干渉が、もう生まれないように。

 でもこの生活は、すぐには終わらない。父との親子関係はこの先も一生続くし、それに、僕が自立しようとどれだけ息巻いたところで、結局はこの家に居続けるしかないのだ。少なくとも、高校を卒業するまでは。僕は今あるこの環境で、なんとかやっていかなくてはならない。

 僕は今あるこの環境で、なんとかやっていかなくてはならない。

 その言葉を、僕は今一度頭の中で繰り返した。
 であれば、「自炊を始める」というのは、「胃を小さくする」よりもよほど健全な自立への準備のように思えた。そう、僕は誰のためでもなく自分のために、早く自立しなくてはならない。そのためには「父の干渉を避けたい」などという些細な問題に捉われている場合ではない。

 あの日のタマキさんとの食事は、僕にそれを気付かせた。

 そんな具合に、僕は2日に1回程度の頻度で自炊を試みるようになった。すると、すぐに生活のいたる場面でその影響は現れた。

 朝はすっきりと起きられるし、授業中も眠くならずに集中できる。そして何より、陸上部でのパフォーマンスが明らかに向上した。
 これまで長い間停滞していたタイムはあっさりと更新され、体感的にも、3000m走の後半に到来する苦しさが、目に見えて軽減された。

「凄いじゃないか。テツお前、どうしたんだ?」と、先輩は言った。
「何か変えたのか。フォームとか、筋トレのやり方とか?」

 そんな先輩の質問に、僕は無言で愛想笑いを返すのがやっとだった。
「ちゃんとご飯を食べるようになりました」なんて馬鹿みたいなことは、とても言えなかった。



 そんな話をすると、「へぇ、凄いね!偉いじゃん」と、タマキさんは目を輝かせた。例のスーパーのイートインコーナー。我々は二人がけのテーブルに向かい合わせで座り、夕食を共にしていた。

「でも、今日はまたここにいるけど、なんで?」と、彼女は続ける。その声には、どことなく悪戯っぽい響きがある。

「それは…報告するためですよ。タマキさんに」
「へぇ、私に。どうして?」
「だって、タマキさんのお陰で気付けたわけですし。感謝の意味というか」
「おうおう。高校生はいじらしくてかわいいのう」
「…」
「それに、前より栄養バランスも気にしてるようだし。感心感心」

 そう言われ、僕は自分の手元に視線を落とす。
 今日の夕食は鮭の切り身が入った弁当とインスタントの味噌汁、それに袋入りのキャベツの千切りである。サラダではなくキャベツの千切りというのが、なんとも節約の工夫が垣間見えるメニューだった。
 そのまま何気なく彼女の方を見た僕は、思わず「タマキさんは、今日は少ないですね」と言ってしまった。
 彼女の手元には野菜サラダと、おにぎりが一つ。ただそれだけだった。

「今日はちょっとね。眠いんだよ。食欲よりも、眠いの」

 そう言って、彼女はうーんと伸びをした。たしかに改めて彼女を見ると、いつもより疲れているように見えた。顔色も少し悪いかもしれない。

「大丈夫ですか。体調が悪い?」
「んーん。今ちょっと忙しいから。それだけ」
「そんなに仕事って大変なんですか」
「いや…ただ、どうしても繁忙期ってのはあるんだよ。仕事だからね。よくあることだよ」

 そう言って、少し笑って見せる。その笑顔にも、どことなく疲れが滲んでいるようだった。


 それから徐々に、タマキさんに会うことが少なくなった。

 彼女は明らかにイートインスペースに来る頻度が減っているようだった。会えることを期待してしばらく待ってみても、とうとう会えずに、諦めて帰る。そんな日が続いた。
 そんなとき、僕は仕方なく一人で食事をした。たとえ一人でも、栄養バランスには気を配り続けた。

 だから久しぶりに彼女に会えた時、僕は意を決して「連絡先を交換しませんか」と提案した。しかし彼女は「うーん」と、少し困ったような反応を見せた。

「それをすると、多分良くないんだよ」
「良くない?どうしてですか?」
「それは君が未成年で、私が大人だから。そういうのって、世間の風当たりが厳しいの」
「世間の風当たり??」

 と、僕はびっくりして言った。

「まさか。俺、そんなつもりないですよ。というか、すでに一緒に食事に行ったじゃないですか。そしたらあれもアウトじゃないですか」
「確かにあれは、少し軽率だったかも…ごめんね」

 と、彼女は困った顔で言う。
 違う。そんなことを言って欲しいわけではない。

「未成年の俺の方が言っているのに。ダメですか」
「…」
「俺、あと1年で18歳です」
「うん…そうなんだけどね。難しいんだ。色々と」

 そう言って彼女は、食事の後片付けをはじめる。彼女は会うたびに食事の量が減っているように見える。今日の彼女が食べていたのは、梅のおにぎりと野菜ジュース。ただそれだけだった。

「ごめんね」

 そう言う彼女の笑顔は、少し悲しそうに見えた。そしてそのやりとりを最後に、とうとう彼女はイートインスペースに来なくなった。



 僕は二日に一回程度だった自炊の頻度を減らして、ほぼ毎日イートインに顔を出すようになった。僕がたまたまいない時に彼女が来ていたらと思うと、そうしないわけにはいかなかった。

 それでも、彼女が現れることは無かった。

 毎日一人で夕食をとる日が続いた。
 スーパーの店内にはいつもの底抜けに明るいBGMが延々と繰り返されて、それは僕を意味なくやりきれない気持ちにさせた。

 一人で食事をとる際も、僕はその食事の栄養バランスが偏らないように気を配り続けた。それが僕にできるほとんど唯一のことだった。


第3話


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