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イートインで逢いましょう(第3/6話)/小説  創作大賞2024


第1話

第2話



3.


「おはようございます」
と、努めてはっきりと声に出して、私は扉を開ける。

 オフィスにはすでに何人か社員がいたけれど、彼らから返ってくるのは挨拶というより、もはや呻き声だった。当然顔を上げる者などいない。
 自分のデスクに向かい、鞄を置く。パソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ間、先ほど購入したブラックのコーヒーを一口飲む。
 また今日も、灰色の一日が始まる。

 今の会社に入社してから2年が経った。仕事には幾分慣れたけれど、大変さは入社した当初からちっとも変わらなかった。毎日定時に出社するのに、帰る頃には日を跨いでいることもざらだった。

 この職場について一通り把握した今、私はこの会社をいわゆる『ブラック企業』なのだろうと結論づけた。

 上層部の気まぐれでプロジェクトの方向性はくるくると変わり、それによりこれまで心血を注ぎ取組んでいた作業はいとも容易く無駄になった。
 そして代わりに与えられる新たな業務。それらは無制限に供給され、個人のキャパシティを勘案し、制限がかけられるなどということはなかった。
 そもそも各社員が今どのような業務を抱えており、それがどの程度の作業量なのか、把握して管理する者など一人もいないように思えた。

 人間性に問題のある人が多いとか、ハラスメントが蔓延しているとか、そういうわけではない。問題はいつも根深く構造的な部分にあった。
 寧ろ社員たちは、この過酷な状況の中でお互いを労い、気遣い合っていたように思う。なぜなら、誰か一人でも離脱すればこの状況はたちまち崩壊することを誰もが知っていたからだ。
 このように、いつ崩れてもおかしくない均衡を突貫工事で凌ぎながら、我々の職場は成り立っていた。

 生活において仕事の占める割合が、日を追うごとに増した。それ以外のものは自然とおざなりになっていった。それらは衣食住といった生活の根源的な部分にまで及んだ。とりわけ「食事」というのは私がもっとも重要視するものだったけれど、その食事でさえスーパーで購入し、そのままイートインスペースで食べてしまうことが増えた。
 学生の頃は美味しいものを自作し、友だちと食べる事が何よりの楽しみだったけれど。そんな日々はもう二度と訪れないんじゃないかと思った。

 日々が驚くほど早く過ぎ、季節は私の前を無感情に通過していった。

 これが社会人として働くということならば、と私は思う。生きていて、一体何が楽しいのだろう。当たり前のように仕事をする人たちは、なぜこんな生活を何十年も続けられるのだろうか。私の場合、あと何年この状況を続ければ解放される?これからの人生、ずっとこんな生活が続くのだろうか。

 そう思うと、やり切れなくなった。


 イートインコーナーで彼を見かけたのは、そんな時だった。


 彼はどう見ても、普通の高校生だった。ハーフパンツにジャージ、それに学校指定のスクールバッグ。部活帰りであることは容易に想像がついた。
 普通ではなかったのは、彼がいつも一人でカップ麺を食べていたということだった。

 はじめは夕飯まで空腹に耐えられずそうしているのかと思った。でもそれにしては時間が妙に遅いし、何よりいつも彼はひとりぼっちだった。次に彼を目撃した時もまたその次の時も、彼はひとりカップ麺を食べていた。

 私は心配になってきた。

 彼の食生活も心配だったし、何より彼がそうしているのは、家庭環境に問題があるのではと思った。
 食事を作る母親がいないのだろうか。あるいは何かの事情があって、家での食事が許されないのだろうか。まさか、ネグレクト…?いや、部活帰りの高校生でそれは無いか。

 話を聞きたいけど、なんて言えば良いのだろう。私たちは赤の他人同士で、見知らぬ社会人女性が男子高生に声をかけるというのは、そっちの方が危ない事案のような気がする。仮に声をかけるとして、なんと言えば…?

「ねぇ、ちょっと君の食事と家のことを聞きたいんだけど、良いかな?」

 どう考えても不審者だった。
 違う違う。私は何も男子高校生と仲良くなろうとしているわけではない。彼の家庭環境に問題がなければ、それで良い。そもそもが私の考えすぎかもしれない。でも万が一、本当に問題がある状況だったら?

 気になりすぎて、仕事中もその子のことを考えるようになった。いてもたってもいられず、まだ先の見えない仕事を強引に持ち帰り、例のスーパーマーケットへ彼の姿を確認しに行く日が増えた。

 百発百中で彼はそこにいて、カップ麺を食べていた。

 その光景は私を安心させたけれど、同時に脱力感みたいなものも感じさせるのだった。だめだ。気になりすぎて、日常に影響が出ている。一刻も早く彼の状況を確認して、安心しなければ…。

 悩みに悩んで、私は食べ物を渡してみるという奇策を思いついた。

「ちょっと買いすぎちゃったんだよね」
「悪くなっても勿体ないし、食べてくれない?」


 よし、これならギリギリセーフな気がする。それに、私たちは数少ない、あの時間のイートインコーナーの常連だ。私が彼を認識しているように、彼も私を認識しているという自覚はあった。すれ違い様に会釈をしてくれたことだってある。

 ここまで真剣に見知らぬ高校生のことを考えている時点で十分怪しいが、もうこうなったら仕方ない。行動しない後悔より、行動する後悔だ。私は腹を括った。そしてある日、とうとうその策を決行した。


「急にごめん。ちょっとお願いがあるんだけど」
「これ、食べてくれない?多くて」

 努めて平静に、私は彼に話しかけた。彼は明らかに面食らっていたけれど、最終的には差し出した梅おにぎりを受け取ってくれた。

 はじめはおにぎり。次は惣菜パン。サンドイッチ。

 何を渡しても、彼はあっという間にペロリと平らげてしまう。彼は汗をかいていたけれど(部活帰りだから当然だ)清潔な服装をしていたし、しっかりとした物腰から、家庭環境に問題があるわけではなさそうに思えた。

 ただ一つ、明らかな事実として、彼は夕食にカップ麺しか食べておらず、それは食べ盛りの胃袋を満たすには、全く足りていないようだった。
 ここまでくるともはや心配はしていなかったけれど、私は彼がなぜこんな質素な夕食をとっているのか、その理由を知りたくなってしまった。フェードアウトする前に、なんとかそこの所だけでも聞き出せないものか。

 そんなある日、カツサンドを渡すと彼に呼び止められた。
 私は心の中で「おっ」と思った。会話のきっかけになるかも知れない。
 思ったとおり、彼は私の食べ物を渡す行動について追及した。その理由を、私は正直に伝えた。

「なんでいつもカップ麺ばかり食べているの?」と。
「私は赤の他人だけど、ちょっと心配になるよ」と。

 すると彼は、自分の置かれた状況を詳しく話してくれた。

 ご両親が離婚して、家に母親がいないこと。
 食事はお金を渡されていて、ある程度自由にできること。
 しかしあまりそのお金を使いたくなくて、節約しようとした結果、今のカップ麺ばかりの食生活に落ち着いたこと。

 理由については概ね筋が通っていたけれど、それを聞いて「なるほど、あーすっきり。ではさよなら」とはならなかった。

 それを聞いて私は、ますます彼の食生活をなんとかしたくなってしまったのである。



「…という状況なんだけど、さすがにやばいかな」と私が聞くと、
「そうね、ちょっとやばいかもね」とナオコは平然と答えた。

「うーん…そうかぁ」
「見ず知らずの高校生だよね。声をかけて、食べ物あげて…人によっては通報されるかも、それ」
「通報!?」

 思いもよらぬ物騒なワードに、私はたじろぐ。

 ナオコはいつも冷静だ。それに、はっきりものを言う人だ。高校時代からそれは変わらない。
 その物言いから、人によってはキツイと忌避されることもあったけれど、私にはその裏表の無さが心地よかった。それにナオコのそうした言動は、結局のところ彼女の面倒見の良さや優しさに由来することを、私はよく知っていたから。

 暗い部屋で机に向かい、持ち帰った仕事を整理しながら、私は携帯電話を傍に置いて親友に近況を報告した。話題が彼のことに差し掛かると、彼女の声は慎重な色を帯びた。

「タマキのことだから他意はなくて純粋な心配からだって、私にはわかるけど…でも、こういうご時世だから」
「そうかなぁ」
「そうだよ。今の時代、男も女も関係無いの。油断するとすぐ被害者にも、加害者にもなっちゃう」
「そっか…気をつけます」

 と言いながら、私は内心焦った。
 というのも、私は現時点でその男子高校生と待ち合わせの約束をしているからだ。約束といってもその場のなりゆきだったけれど、ちょっと軽率だったかな…いずれにせよ、ナオコには言わないでおこう。

「というか、タマキは人の心配してる場合じゃないでしょ」
「え?」
「あれから仕事はどう?少しは改善された?」
「あー…」

 と、私は言い淀む。

「相変わらずかなぁ…あ、でも残業はちょっと減ったかも」
「それはそうやって仕事を持ち帰ってるからでしょ。ねぇ、タマキ」

 と、彼女は心配そうな声で続ける。

「お願いだから、無理はしないでね。前から言っているけど、ちょっと普通じゃないと思う。その職場は」
「…」
「体を壊したら元も子もないよ。それこそ、転職も視野に入れてさ」
「うん、わかってる」 と私は答える。

「…でも、もうちょっと頑張るよ。せっかく慣れたところだし。たしかに今は忙しいけど、あと少しでちょっとは落ち着くはずだから」

「…そう」と、ナオコが言う。

「でも、本当に無理しないで」
「ありがとう」と、私は言う。

 そこから少しだけ、私たちは沈黙した。
 二人の間に、それぞれ考えを巡らせるささやかな時間が流れた。

「あのさ」と、不意に私は切り出す。

「落ち着いたら、どっか遊びに行かない?」
「遊びに?ふたりで?」
「そう、ふたりで。学生のときみたいに。だって私たち、もう随分長いこと会ってないじゃない?」
「そうだねぇ」とナオコは言う。

「たしかに、もう1年くらい会ってないかな」
「ね。だから、行こう。水族館」
「また水族館?好きだね」とナオコは笑った。

 水族館は、学生時代に数えきれないほど訪れた、我々のお決まりのスポットだった。あまりに行きすぎて、一度は全国の水族館をふたりで制覇しようと本気で思ったほどだ。

「良いじゃん。ペンギン見に行こうよ、ペンギン」
「ペンギン!あんた好きだもんね」と、ナオコ。
「うん、いいよ。付き合ってあげる」

「やった。約束だからね」と私が喜ぶと、
「うん。約束」と彼女は優しい声で言う。そして、

「だから、それまで潰れちゃだめだからね」と、念を押すように言った。
 



 ナオコは、優しい。

 私たちは同じ高校から同じ大学に進学した、いわゆる同級生だった。高校から、大学。そして社会人へ。ライフステージが変わると自然と付き合う友人も変化していったけれど、彼女との繋がりだけは変わらなかった。
 私が今の会社に勤めると会う回数は減ってしまったけれど、その中でも私たちは定期的に連絡を取り合い、近況を報告したり、お互いの愚痴を聞き合ったりした。

 先ほどの「仕事がもうすぐ落ち着く」という話も、あながちただの希望的観測というわけではない。実際、仕事の状況はわずかに改善されているように思える。業務の量は相変わらずだったけれど、私が例のスーパーに寄るために仕事を持ち帰るようにしてから、少なくとも日を跨いで会社に残るということは無くなった。
 もちろん帰宅後も仕事を進めるのだけど、それでも一度退社し、気持ちを区切って再度取り掛かるというのは、心理的に随分楽だった。これは思わぬ発見だった。

 それに…と、私は思う。あのイートインスペースで彼と夕食を食べる時間は、今では私にとっても数少ない、心休まる時間となっていた。
 誰かと話しながら食事をするということがこれほど心を落ち着かせてくれるということを、私はすっかり忘れていた。私が彼の身を案じて行動しただけだったのに、今ではその時間に私が救われている。私は密かに心の中で彼に感謝した。

「…さて」と、私は一つ息をつく。

 目の前には、持ち帰った仕事が満を持して広がっている。冷めてしまったコーヒーに一度口をつけ、私は仕事に取り掛かる。

 それでも先ほどまでと違い、私の頭の中には青く広大な水槽を泳ぐ色とりどりの魚たちや、きらきらと光る水面に漂うペンギンたちの光景がいっぱいに溢れていた。



 状況が変わったのは、それから2ヶ月ほど過ぎた頃だった。

 きっかけは、会社で現在我々が取り組む案件の他に、もう一つ別の案件を並行して行うという業務方針が発表されたことだった。
 ただでさえ綱渡りで日々を凌いでいる状況なのに、上層部は何を考えているのだろう、いや何も考えていないのだろうなと私は思った。
 綱渡りだろうが突貫工事だろうが、なんとか凌げてしまっているから、こういう話になる。何かが致命的に破綻するまで、上がこの状況を直視することはきっと無いのだ。

 案の定、そこからまもなくして我々の業務は綻び始めた。

 まずはじめに、一人の若い男性社員が入院した。彼は例の新案件を主に任されていた人物だったので、現場は動揺した。誰かが彼の後任として、プロジェクトを引き継がないといけない。それも自らの業務も並行しながら。

 その後任に、あろうことか私が選出された。

 実力的にも経験年数から言っても不相応な私が選ばれた理由はただ一つ、「一番余裕がありそうだったから」だった。
 そう、例のスーパーでテツと会うために無理をして仕事を持ち帰っていたことが、こんな形で裏目に出たのだ。

 私の生活は一変した。再び夜遅くまで残業をする日々が続いた。一度退社して気持ちに区切って家で仕事するなどという甘いことは、言っていられなくなった。

 しかしそれでも、私はなんとか無茶をしてでも、例のスーパーに行くように努めた。それは、突然会えなくなることでテツに余計な心配をしてほしくないというのが一つ。そして何より、あのイートインで夕食を共にする時間は私にとっても大切で、それを失いたくないという気持ちがあった。

 だから、久しぶりに会ったテツから「連絡先を教えて欲しい」と言われた時、私はたまらなく嬉しかった。と同時に、「これはまずい」と思った。


 もともと私たちは、年齢も環境も違う本来交わらないはずの二人だ。なので当初私は、彼の家庭に問題がないことが確認できたらさっさと消えるつもりだった。
 それなのに、私はずるずると関わりを続け、今ではむしろ私の方がこの時間に依存してしまっている。仕事の辛さから逃避するための、拠り所にしてしまっている。

 だから私はテツの申し出を、断った。

 ここで受けてしまえば、私はきっと一切合切を彼に打ち明けてしまう。そうしたら、自分が大人の体裁を保てる気がしなかった。だからこれは私の大人としての最後の意地みたいなもので、同時に私のこんなにボロボロの側面を、高校生の彼に晒すことへの拒絶でもあった。


 そうして私は、今後一切彼の前に現れないことを決めた。



「何かおかしい」と気づいたのは、朝の駅のホームでのことだった。

 その日いつもと同じように電車に乗ろうとした私は、自分の足がピタリと地面に張り付いたように動かないことに気づいた。

 他のどこにも異常は無い。ただ足だけが、まるで自分の意思と切り離された置物になったように動かないのだ。周りの乗客は怪訝そうな顔をして、私を迂回し電車に乗り込んだ。発車を知らせるベルが鳴り響いても、やはり足は動かない。

 結局電車は行ってしまい、私は一人その場に立ち尽くしていた。


 しばらくすると、足に感覚が戻ってきた。
 歩いてみる。歩ける。問題ない。


 私は自販機でペットボトルのお茶を購入し、ゆっくりと時間をかけて飲んだ。…大丈夫。次の電車でも、まだ出勤時間には十分間に合う。



 …しかし次の電車でも、やはり私は乗降口で動けなくなってしまった。
 あと一歩。たった一歩踏み出せば電車に乗り込めるのに、その一歩がどうしても動かない。


 不意に、涙がぽろぽろ出てきた。


 私は、その事実をしばらく理解できなかった。別に悲しいわけではないのに涙は次から次へこぼれ、止めようがなかった。私は全くわけがわからず、ただ迷子の子どものように呆然としていた。そしてとうとう、その電車も発車してしまった。


 「あーあ」と、私は思った。


 何が決定的だったかは分からない。でもいくつかの出来事が折り重なり、それにより私の中で何かが壊れてしまったのだ。


 私はいつまでもその場に立ち尽くしていた。
 慌ただしい人々で溢れた駅の喧騒が、どこか別の世界の雑音のように耳の奥でどんどん遠く、小さくなるのを感じた。


 多くの人がそれぞれの場所へ向かうこの駅で、ただ私ひとりだけが、この場所からどこへも行けなかった。


第4話


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