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虜(短編小説『ミスチルが聴こえる』)


 君が初めて僕の前に現れたのは、2019年、6月22日だった。その日は街が湿るほどの大雨が降っていて、外に出ることすら億劫になる天気だった。
 その日は休日だったから、僕は雨の音を聴きながら昼まで布団の上でゴロゴロして、朝昼兼用で冷凍のパスタを食べて、午後は憂鬱な気持ちでテレビを見ていた。だけどすぐに飽きて、携帯でツイッターを見ていた。
 すると突然、1人の女性の写真が僕の目を刺激した。思わず、二度見してしまった。
 可愛い。
 それが彼女に対して僕が抱いた第一印象だった。
 それから僕は水を得た魚みたいに活力を手に入れて、インターネットでその女性を調べてみた。
 神山エミ。彼女は現在22歳で、3年前からアイドルをしているらしい。さらに僕と同い年で、同じ埼玉県出身だという。
 これは運命の出会いだ。僕の気持ちはみるみる高揚し、夜眠るまで興奮が冷めなかった。
 何日経っても、彼女の笑顔が僕を支配した。調べれば調べるほど魅力的で、すべてが愛おしく感じてしまう。顔はもちろん、スタイルも、声も、性格も、僕の性的な本能を燃え上がらせた。
 僕は、完全に彼女の虜になってしまった。
 どうにかして、彼女に会えないだろうか。
 それから、僕は彼女の所属する芸能事務所に『会いたい』と書いた手紙を送ったり、事務所の近くをウロウロして、少しでも接触できる可能性を探った。だけど、彼女は芸能人だ。僕みたいな一般人が会えることはない。

 そう思っていたある日。それは2019年8月4日で、太陽がギラギラと輝く晴れた日だった。
 僕は夏休みだったから、時間を持て余していた。
 そうだ、エミちゃんに会いに行こう。
 僕は東京に出て、事務所付近を歩いたりした。だけど、エミちゃんが現れることもなく、夕方になって僕は地元に帰った。
 しかしそこで、見てしまったのだ。他の男と腕を組んでいるエミちゃんを。
 最初は見間違いかと思った。埼玉にエミちゃんがいるわけがない。しかし、見れば見るほど、エミちゃんだと確信してしまった。それに、僕は嫌なことを思い出してしまった。エミちゃんは、埼玉県出身だ。だからエミちゃんが埼玉県にいてもおかしくはない。
 シンプルに、ショックだった。僕を虜にしたはずのエミちゃんが、ほかの男を虜にしているのだから。
 瞬間的に、ぐんと押し上げてくる衝動を抑えられなかった。
 僕は先に回ってカメラを構えて、バレないように2人の写真を撮った。そしてその場で、スクープ写真を週刊誌に提供した。
 後日。僕が提供した写真や情報が週刊誌に乗り、エミちゃんはたちまち炎上した。容赦ない誹謗中傷が、彼女を切り刻んでいく。事務所も彼女を庇ったのか、それとも懲罰の意味があったのか定かではないが、当面の活動を休止すると発表した。
 ざまあみろ。エミちゃんの虜になっていたはずの僕は、裏切られた彼女への恋情をひっくり返して、真っ黒な怨嗟の感情を抱いていた。


 2019年9月1日。エミちゃんは突然死んだ。死因は車に轢かれた事故死らしいが、テレビに出ていた専門家は、ストレスのせいで注意が不散漫になったんじゃないかと言っていた。
 鏡に映った僕の顔は、真っ青になっていた。まるで死人みたいだった。
 そこまで望んでいないのに。どうして死ぬんだよ。なんでだよ。
 絶対に僕のせいで、間違いなく僕のせいで彼女は死んだ。僕があんな情報を世間に流したから、エミちゃんは正気じゃなくなって、おかしくなって、もしかしたらわざと車に轢かれたのかもしれない。
 僕のせいで。
 だけど、誰も情報をタレコミしたのが僕だって知らない。だから僕が叩かれることも、貶されることもないだろう。僕はこれからも平凡な毎日を生きていくだけだ。
 いや、そんなことできるわけないだろう。だって僕は、今日エミちゃんを殺しちゃったんだから。
 罪を償わないといけない。僕は身軽な格好で、外に出た。頬をべたつかせる緩い風が吹いて、余計に悲しくさせる。この湿り気、エミちゃんと出会ったときと同じだ。出会いも別れも、涙みたいに濡れる世界。
 もう、僕だけが生きているのは間違っている。
 電車に飛び込もう。そう考えた僕は、地元の駅まで向かおうとした。
 すると、誰かが道端でしゃがみ込んでいた。近づくと、その人は嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「大丈夫ですか?」
 僕が訊くと、彼は顔を上げて、「すみません」と言った。
 あれ、この人。
 思い出した。この人は、エミちゃんの彼氏だ。
「今日、大切な人が死んじゃって。今、病院から帰ってきていたんですけど、耐えられなくて……」
 僕は、大切なことに気がついた。エミちゃんは、おそらく彼を愛していた。そして彼も同じくらい、エミちゃんを愛していたのだろう。
「ごめんなさい」
 僕は地面に頭をつけて、溢れる情けない涙を流しながら言った。
「僕のせいです。僕があなたたちが2人で歩いているところを写真に撮って、週刊誌に売りつけたんです」
「あなたが……」
「僕は、エミちゃんが大好きでした。ツイッターで写真を見て、虜になってしまいました。だから2人で歩いている姿を見たとき、ムカついてしまって。それで……」
「そうですか」
 彼は冷静に言った。生気のない、凍った声をしていた。
「俺が悪いんです」
「え?」
「俺がエミを遊びに誘わなければよかったんだ」
 それから、彼は月を見ながら言った。
「俺とエミは幼馴染で、小さい頃からずっと一緒にいました。だからお互い、友達以上の関係だと思っていました。エミがアイドルになるって聞いたときは、正直ショックでした。だけどそれがエミの夢だと聞いて、俺は素直に応援しようと思いました。しばらくは耐えていたんですけどね。やっぱり、会いたい気持ちは抑えきれませんでした。俺は何度も何度もエミに連絡して、会いたいと言いました。そうしたら、エミも会いたいって言ってくれました」
「それが、あの日」
「はい。あの日は、俺の誕生日でした。だから2人で昼にレストランに行きました。そこで、俺は言ったんです。エミがアイドルを辞めたら、結婚しようって。エミはいいよと返事をくれました」
 彼の目から、ぽたぽたと涙が溢れて、それが月の光でわずかに輝いている。
「スクープが出たとき、エミはアイドル失格だと自分を責めました。せっかく掴んだ夢を、こんな形で壊してしまうなんて、本当に愚かだと言っていました。だけど、俺を愛する気持ちは本当だったみたいです。だからエミは混乱してしまいました。アイドルと俺。どちらを取っても、不幸になり、幸せになる結末だと言っていました」
 僕は息をすることさえ辛くなって、本当に申し訳ない気持ちが覆って、死にたくなった。
「エミは、何を思って死んだのでしょうね。俺にはわかりません。ただ一つ言えるのは、誰かを責めても、エミは戻ってこないということです」


 2019年9月2日未明。僕は1人、罪を償う。

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