クロスロード(短編小説)


 いつの間にか、僕らは忙しさの渦に巻き込まれていて、悠々と流れているはずの時間に感謝できずにいる。
 今日も空は雲ひとつない快晴なのに、それすら憂う人がいる。落とし穴みたいに空っぽにされた心に、次々と押し込まれていく鬱憤、怒り、焦り、戸惑い、そして悲しみ。僕らはそんな悪玉菌を抱えながら、今日も街を歩いている。
 人気の少ない平日の渋谷は、どこか呪われたように空気が淀んでいる。
 僕はじりじりと陽が差すアスファルトを眺めている。前方には、前のめりになって信号機の色が変わるのを待っている人がいる。急かす想いを溢れさせて、まだかまだかと行き来する車を睨みつけながら、一秒一秒をを過ごしている。
 もう少し、心に余裕があればいいのに。遠くからでも明らかな忙しなさに、僕はまた憂いてしまう。
 渋谷にいると、二年前に別れた彼女の顔を思い出してしまう。痴話喧嘩がエスカレートして、お互いの気持ちを確かめ合った結果、その場で縁を切ることになったのだ。それ以来一度も連絡をしていない。
 彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
 僕は時々、過去に向かって怒りをぶつけることがある。彼女のことをもっと愛してやれたのにと、一寸先の闇の中で懐古して泣いたりする。しかし、悔やんだって後の祭りだった。いくら苦悩しても、彼女は二度と僕のもとに戻ってこないのだ。
 この世界にある全ての時間は、決して巻き戻しすることができない。もう一度見ることができないから、愛おしい記憶として残っていくのだろう。
 歩道の信号が青に変わる。一斉に人々の足が前に進んでいく。僕も人波に飲まれながら、今日もどこかを彷徨う。

 いつの間にか、私たちは発展していくことに躊躇しなくなって、大好きだった過去が壊れても平気になっていった。少しは感傷的な気分に晒されても、すぐに立ち直る新しい薬を飲んで、また新しいものにすがっていく。懐かしむことなど恥と教えられ、未来のことばかり創造し続けている。
 人気のない渋谷は、賑わっている休日と違ってどこか気が抜けている。私はなかなか変わらない信号に待ちくたびれながら、額から出る汗を拭う。これからもっと気温が上がると気象予報士が高らかに宣言をしているのを見ると、生きていることに対して余計に嫌気が差してくる。
 もう少し、心に余裕があればいいのに。私は自分自身の情けなく、弱くて醜い心情を憂いてしまう。
 渋谷にいると、二年前に別れた彼の顔を思い出す。大したことじゃないのに喧嘩をしてしまい、お互いが好きな気持ちが薄れていった。もう別れた方がいい。彼の言葉に、私は頷くことしかできなかった。
 彼は今、どこで何をしているのだろうか。
 私は時々、昔の愚かだった自分に対して、馬鹿だったなと自責する。どうしてもっと彼のことをわかってあげなかったのだろう。どうして自分のことばかり守っていたんだろう。しかし、後悔先に立たず。もう、取り返しのつかないことだから、私は諦めるしかない。
 この世界にある全ての時間は、様々な後悔を抱えながら進んでいく。誰しもがそれを受け入れて、過去にサヨナラを告げていく。
 信号が青に変わる。一斉に人々の足が前に進んでいく。私も人波に飲まれながら、今日も迷い猫を演じる。

 僕は目的地へ向かうために、前から来る人々を避けながら横断歩道を渡る。すると、向こう側から見覚えのある、無視することのできない人がこちらへ向かって歩いてきていることに気がついた。
「え?」
 これは運命なのか、もしかして宿命なのだろうか。だが、僕には神様の悪戯の意図が読み取れなかった。
「祐希?」

 彼の姿が視界に入ってきた瞬間、私は幻の世界へ引きずり込まれたのかと勘違いした。だけど、この時間のこの場所に、確実に彼の姿は存在しているらしい。
 青空はこのままずっと、私たちに健やかに生きてほしいと願っているのかもしれない。だからもう一度、私たちを引き合わせたのかもしれない。
「雅夫くん?」

 二年越しに、祐希のしなやかな身体を見た。どこか欠けているその視線が、僕を吸い込んでいく。僕らは交差点のど真ん中で、過去ではない、現在の姿を見せ合っている。

 雅夫くんは少し痩せたように見えた。捉えきれない彼の全てが、遠い昔の記憶を鮮明に呼び覚ましてくる。雅夫くんとの楽しい記憶、雅夫くんとの悲しい記憶、雅夫くんとの……。

「祐希、一緒に渡ってほしい」
 僕は咄嗟にそんな台詞を言って、本能で彼女の手を掴んで、この横断歩道を渡り切った。信号が赤になり、再び車たちが勢いよくアスファルトを踏みしめていく。
「ごめん、変なことしちゃって」
 でも、僕は僕を止めることができそうにない。
「祐希、僕、やっぱりどうしても祐希が必要なんだ。だから、もう一度やり直してくれないか?」

 雅夫くん。私だって、忘れることはできないよ。
「うん」
 クロスロードで再び交わった私たちは、あの頃のようにゆっくりと抱きしめ合った。
 

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