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通り過ぎてゆくもの/かつてとこれからの生徒たちへ
僕の仕事は、子どもたちの人生の中で、わずかばかりの時間、そこを通り過ぎて行く、名もない通行人のような、そんな仕事である。
時間にすれば、長く関わる子も(大変ありがたいことに)多いのだけれども、やはり僕は子どもたちにとって、通行人の一人でしかない。偶然にして出会い、そして通り過ぎてゆく。
ともに熱く過ごそうとか、涙しようとか、語り合おうとか、それはどうもおこがましいし、偉そうに思えるのだ。
そもそも、君にも、あなたにも、もっと大事にしなければならない人がいる。それは家族であったり、友人であったり、時には恋人であったり。
だから僕は、なんとなく出会ってなんとなく通り過ぎたよくわからない人、くらいで丁度良いのだと思う。
まあこの人なら(少し同じ時間を共にしても)“悪くない”くらいで、もう十分なのである。
僕の為すことは、ひとりの大人としての、ささやかなギフトであって、それはいち大人である僕が勝手に思い込んだ使命感によってなされるものでしかない。勝手に思い込んでいるだけなのだから、子どもたちはギフトに気づく必要もないし、むしろ気づかなくて良い。
そのまま互いに無視していては、さすがに触れた袖が少し寂しいから、わずかばり、挨拶くらいを交わしていれば、もうそれでよいのである。
“あぁ、どうも”
深々と感謝することは、子どもたちには「今」必要ではない。
あの大人の通り過ぎた意味はなんだったのだろう?と、そう、わからないくらいで丁度良い。
君もあなたも、なぜそんな使命を感じるのか、不思議がるかもしれない。
なぜ自分たちにギフトされるのかを。
その答えは至極シンプルで、僕もかつて同じように、誰からかすらわからない“それ”を受けとったから、だ。
だから、同じように、たぶんいつか、君もあなたも、それを受け取る日が来る、と僕は勝手に思い込んでいる。
やがて大人になる。
歳をとる。歳を重ねる。
その中でいつかあれがギフトであったのかもしれないと気づく子が、わずかながらいるなら、それでもう十分ではないか。
もしいつか、わずかばかり気づく子がいるならば、その時はそれを、次の世代につないでいってくれればそれで良い。
“あぁ、そういえば、そういう大人がいたな”
そのくらいでぼんやり思い出してくれるなら、もう役割は果たせるのだ。
それがいち大人の僕の使命であり、子どもたちへのギフトなのだから。ギフトは差出人がわからないくらいが、やはり丁度良いのである。
“あぁ、どうも”
交わす言葉はそのくらいでよい。
僕の仕事は、名も知られることない通行人のような仕事だ。
“あぁ、どうも”
またいつか会ったら、そんな他愛もない挨拶を交わそう。
また、いつか。
(いつかとこれからの、僕の生徒たちへ)
-おわり-
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