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先生という仕事は、繊細な人の方が向く、というお話。

先生という仕事は、繊細な人の方が向く。

これまで多くの先生を雇用し、育成してきて、さらに子どもたちや親御さんからの評価を見てきて思うことのひとつだ。

「そんなちょっとしたこと」に気づく力、これはとても大切な力なのだ。

「そんなこと気にしなくてもよいに」というくらいがむしろ適当なのである。

繊細で打たれ弱いくらいが丁度良い。

なぜなら、人の心の「機微」を感じられるから。
同様に、そこにある「場」について敏感になれるから。

繊細さを弱いと決めつけるのかどうかについては、個々の自由だとは思うが、繊細さが実は強さにつながることもあることを知るべきなのだろうと思う。


子どもたちが教室に来る。
挨拶の仕方や声のトーン、目線、姿勢、振る舞い、表情、あらゆることをこの繊細さのセンサーが拾う。
勉強を始めても、子どもたち一人一人の、いちいちの表情や感情、動作が気になるのである。
なぜこの子は今日は手が進まないのか。なぜ表情が浮かないのか。


もちろん、繊細さは人以外のさまざまなものへも向けられる。そこに落ちているゴミも、机の並び方も、教室の温度や照明の強さ、ほんの少し半開きの扉さえも。あらゆるものにアンテナは向けられている。


勘違いしてほしくないのは、ここで述べるのは、繊細さそのものであって、アンテナに引っかかる何かをすべて整理整頓し修正する完璧主義者になれ、ということではない。むしろその逆だ。どうぞ誤解のないよう。完璧主義者こそ先生には向かないので気をつけられたし。


僕のスタイルは、言及してきた通り、受ける技術(詳細は独演会シリーズ動画をご覧あれ)を念頭に置いてあるから、僕の感情や体調などはどうでもよく、子どもたちのその日その時の状態(コンディション)だけが大変重要となる。繊細さなしにできないのが、受ける技術であると言っても言い過ぎではないだろう。


先生自身について考えてみるとわかりやすい。
使う言葉に繊細になり、動きそのものに繊細になる。
共に過ごす教室では、子どもたちの行動だけではなく、先生自身の振る舞いが、場に大きな影響をもたらす。繊細さが働かなければそのことにすら気づけない。


実際通ってくれる子や親御さんはお気づきになるだろう。
僕はドタバタ走るわけでもなく、大声で叫ぶわけでもない。正座が標準で、あぐらすら組まないから、たまにあぐらを組んでいたらびっくりされるはずだ。その上で、ゆるりと、ある。あまり気づかれなくてもよく、存在感がない方がよいと思いながらそこに、ある。(「ある」と書くのは、そこに「いる(居る)」のではなく、「あり方」の方が大事だと考えているから)

僕は自分の声の大きさも、笑い方も、座り方や立ち方に至るまで、繊細さのアンテナを張っている。
その上で、先生は自然体であるところに向かわなければならないことは付け加えておこう。わざとらしいとか、無理をしているとか、そんなふうに見えてしまうのは未熟さゆえで、プロを超えた先の、仙人的なふるまいに向かいたい。



さらに、繊細さついて注意すべき点がいくつかある。

・繊細だからといって、こちらがおどおどしたり、不安定になってはしょうがない。受ける技術というのは、私という存在における欲や我が、脇に置かれてなくてはならない。自分(先生の側)が繊細さをもって何かに気づくたびに、不安定であったり、一喜一憂してはならない。もしそうなってしまうとしたら、そこでの繊細さは、弱さそのものとして捉えられるものに成り代わってしまう。

・繊細だからといって、あなたの感じ取る何かは、所詮、不完全であり、相手の心を読むような超能力的なことは起こらない。ここで言いたいのは、「思い込み」に注意せよ、ということだ。あくまでも繊細さはそのアンテナを張れることに利点があるだけに過ぎない。機微を捉え、リスクを最小限に抑える役割りだと言えばよいだろうか。アンテナで捕らえたのち、適切な行動を取ることで思い込みから脱する必要がある。

一般に、デリカシーのない人、という言い方がある。ここで話しているのはこのデリカシーの話に近いと思ってもらえばよい。
デリカシーのない人は、繊細さに欠けているのである。だから人の心の機微を感じられず、振る舞いを間違えてしまうのだ。

よくいうところの、(人の心に、人の領域に)土足で踏み入る人、立ち入る人、というのも同様である。

昨今の子どもたちは、このあたりは非常に敏感で、気にしておきたいポイントとなる。


この話をするだけでも、すでに、熱血、体育会系、面倒見が良い、というような系統の先生が、今の世代に受け入れられないのがよくわかるはずだ。


繊細さは弱さではない。

むしろ、先生の向き不向きを考える時、この繊細さは武器になりうることがわかる。


重ねて述べるが、繊細さはその人自身の向き合い方で、一気に弱さへと転落する危険をはらんでいる。
弱さとは何か、そこに向き合えないならば、先生という職は選んではならない。
弱さがそのままの姿をとどめ、単なる弱さとして表出してしまう人にできる仕事ではない。向いてないからやめた方がよい、まだあなたには無限の可能性があるのだから。

プロを要求する仕事は残酷である。だから仕事は尊いし、職を全うするなら覚悟は必要だ。


先生という仕事は、繊細な人の方が向く。

そういう話だ。

(おわり)






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