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【2012年の記事その3】学びと大衆と世界像 そして教育

【2012年の記事 その3】
ついでに、もう一つ2012年に書いた記事を振り返り。(厳密には2つの記事)

こちらは、ちょうどオルテガの大衆に関する記述があったので、自分復習用も含めてアップします。


2012年4月の記事より
タイトル「学びと大衆と世界像 そして教育」


学びがどうあるべきは私たちが何を自覚し、どのように振る舞うかにかかっている。

後発近代的な世界像が壊れ、今日想像されるべき世界像が見失われた状況下での人々のあり方や思考は、およそ80年ほど前にオルテガが論じた大衆論の中に予言的に描かれてしまっているといっても過言ではあるまい。

「賢者は、自分が常に愚者に成り果てる寸前であることを肝に命じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。」
『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガゼット

「今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。」
『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガゼット


こうしたひとつの社会論を取り上げる理由は、人の学びそのもの(もしくは学ぶ姿勢そのもの)に深い関わりがあるからに他ならない。


「でも、親がそれではまずい。大人というのはこどもじゃないんですから。大人というのは、最低限の条件として「世の中の仕組みがわかっている」ことを要求されます。ここでいう「世の中の仕組み」というのは、市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されているという、ごぐごく当たり前のことです。」
『街場のメディア論』内田樹
「でもそれを忘れて、「そういうもの」はそこにあって当然であると考える人たちが出てきた。・・・それが「クレーマー」になった」
『街場のメディア論』内田樹


この記述もオルテガの「大衆」の影響を受けるものだ。


私たち自身のおかれている現状を熟慮した上で、私たちが世界とのつながりをどう捉えていくのか、どういう世界像を描いていくのか?は、子どもたちの教育にも大きな影響を及ぼしていく。



「追いつけ追い越せの次にどういう世界像を描くか。それは個人と世界をどうつなぐかという問題だった。」
『考えあう技術』苅谷剛彦/西研

「私たちの社会はこういう世界像をつくっている。ーたとえば基本的な原理としてリベラリズムにもとづいて、原則やルールをつくり、それを尊重している。ーそれを維持するためにはこれだけの能力をもった人たちが必要ななんだというコンセンサスが、明確に議論されたうえにある。・・・コンセンサスさえ得れていれば学校の役割は明確になる」
『考えあう技術』苅谷剛彦/西研



学びがどうあるべきなのか。

それは社会に生きる大人の不可避的課題であり、子どもたちの教育を真剣に議論せねばなるまい。


2012年4月 続きの記事
タイトル「学びと大衆と世界像 そして教育・2 自己と個人」


八十年代以降に見失われた世界像は、今、単に消費行動を通じての消費者としての満足で、自己が完結してしまうという弊害を引き起こしている。そこに社会へのアクセスは生じ得ない。


刈谷氏と西氏の共著の中に、近代社会の「自由」をひとつの大前提としたメタルールのもとでの世界像共有の必要性が解かれている。

「八〇年代に、自分のために生きていく個人がでてきたけれど、それは社会をどのようにチェックするかという思考は持たない」
『考えあう技術』苅谷剛彦・西研
「個人のなかに引きこもって、消費生活するなかで、自分に対する快を通じてしか自己実現的なものをイメージできなくなる。それは自己実現ではなく自己満足」
『考えあう技術』苅谷剛彦・西研
「「個人」と「自己」を分節化しないで、自分を中心として個性尊重とやってしまうとどうなるか。・・・・消費者としての自由だけで十分だ・・・そういう人間が増えているのでは」
『考えあう技術』苅谷剛彦・西研
「ルールはあくまでもメンバー相互の気持ちよい共存のために必要かどうかという問題であって、その次元でフェアということが言える。だがそれは自分が苦しい、嫌だと言うこととは次元が違う」
『考えあう技術』苅谷剛彦・西研

社会からの働きかけによる自己の確立という側面が失われている現在。


さらにここでの言及通り、個人と自己とを混同させてしまった「個性」「個」主義は、行き詰まりをみせてしまっている。

現代人と子ども達の砂粒化は深刻に進んでいるのだ。


「子どもたちの「個性的」なふるまいというのも、「他者との差異化」を過剰に意識した結果のようにも見えます」
「街場の教育論」内田樹
「四〇人の生徒たちがひとりとして呼吸が合わないように動いている。私はこの努力こそ個性化の兆候だろうと思います。彼らは集団でひとつの共ー身体を構成し、呼吸を合わせ、同時に笑い、・・・・昔の子どもたちが熟達していた非言語的コミュニケーションの術をあきらかに意図的に放棄しています」
「街場の教育論」内田樹


個性を重んじるがあまりに失われたものを今一度取り戻さねばいけない時に来たのではないだろうか。


最後に、コペルくんから、引用。


「君が発見した「人間分子の関係」は、この言葉のあらわしているように、まだ物資の分子と分子との関係のようなもので、人間らしい人間関係になっていない」
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎
「だが、コペル君、人間は、いうまでもなく、人間らしくなくっちゃあいけない。人間が人間らしくない関係の中にいるなんて、残念なことなんだ。たとえ「赤の他人」の間にだって、ちゃんと人間らしい関係をうちたててゆくのが本当だ」
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎


社会と教育、そして学びは常に密接に結びついている。

私たちはこれまでに積み上げて来た智慧や成果を、それらが当たり前にそこにあるといういわば「自然物」ではなく、有り難い「特権」であると自覚し、あらためてそれらを選び直し、次世代に伝えていかねばなるまい。


(おわり)2012年4月の記事より


記事内で引用・参照した書籍


2011年頃の写真






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