教育現場崩壊中/責任を自分の側に引き寄せる努力
教育現場がすでに崩壊を始めている。
多くの方には、教育の現状は、自分の子どもの学校と学年のこと以外はなかなか情報として入らないので、様子(全体像)を把握することは難しいと思われる。
いわゆる、具体的な事例を一つか二つ、知る以上のことができないだろう。
僕の場合は、特別、これらの情報が多数集まってくるために、事例は1でもなければ、2でもない。
こうなってくると、例えば市内だけを見渡しても大変な事態が、毎年のように、様々な学校で生じてしまっていることがはっきりとわかってしまう。
授業に関するもの、部活に関するもの、学校生活に関するもの、不登校に関するもの、内容は様々だが、現状は悪化の一途を辿る。
悪化の一途であると書くのは、時代の変革にあって、学校が旧来の価値観を頑なに維持しようとするがあまり、対応を見誤っているものが多いためだ。
時代が大きく動き、人々の価値観が変革と呼べるレベルで変わる今だからこその大きな違和感とストレスが生じてしまっている。
自分たちの側が価値観を変えねばならないと気づくまでは、さらに現場の状況は悪くなり続けるだろう。
問題は学校の側だけではない。
問いかけは、家庭、親に対しても同様に問われなければなるまい。
具体的内容は公教育を提供する側の学校とは異なるが、市民の一員として、また、いち保護者として、家庭で担うべき責任が何なのかについて、考えていく必要がある。
全て学校が悪い(大半はまず責められるべき次元で学校側の問題は大きいということは認めた上で)では済ませられない。
親だけなく、子の特性が時代の変革と共に大きく変化したために、まずそのことを親が理解しているか否か。
また、家庭教育について考えなければならないこと、責任を持たねばならない領域について考えているか否か、それが問われねばならない。
図式をわかりやすく記述するならば、
1・現場、公教育の場は、自分が知りうる程度の一つか二つの事例を見て見えるもの以上に、つまり、いち個人が想像しうる以上に、悪化してしまっていること。
2・それは時代の大きな変革と共に訪れている、劇的なものであること。
3・子どもたちの特性が見えていない大人(学校・親)が、責任を互いになすりつけ合う状況が生じているが、まずは現在の子どもたち世代全体の特性を理解する必要があること
4・一人の子を対象と見るとき、その子、個人の特性を、親ができるだけ把握しておく必要があり、その責任があること
5・学校側の対応がまずいことの根底にあるのは、その古い教育観ならびに古い人間観であること、そして学校側はそれを認めなければならないこと
6・互いに、責任を自分の側に引き寄せる思考が必要であること
以上、簡単に六つを挙げておく。
特に最後の6番目の項目が肝心である。
お互いが責任をなすりつけるのではなく、
自分の側に引き寄せる努力をすること。
これなしに物事は進展せず、
また、訴訟等に進展し一定の勝敗がついたとしても、
最も辛いのは子どもたちであるということを理解しておかなければならない。
残念なことに頼りにしたい共同体、ここで言えば、地域の共同体はすでに失われている。
その証拠に、不登校やいじめ、各種学校問題は、すでにここ周南市でも、いわゆる周辺部でも生じているのである。
幾らかの農村部にこそ期待をしていたのだが、農村部の方々の多くが(都市型の)中心部に、働く場所を依存していることを考えると、農村部であっても共同体は弱体化してしまっているのだ。
教育の現状を見て、それは明らかになったといって良いだろう。
時代の変革の波は、農村をも襲ったのである。
不登校やいじめ、教師の暴言や体罰。
特に、ダメージを一方的に受けてしまった親御さんや子どもたち、いわゆる(被害を受けた)当事者(被害者)に、責任があるといいたいわけではない。明らかに、一方的な被害者の方もいるはずだ。
しかし、それでもなお、私たちは、私たち自身が作る社会と共同体の一員である。
その側面、その役割からは誰一人して逃れられない。
被害者のケアを最優先することは絶対だが、
責任を自分の側に引き寄せる努力は、我々が日常的に行っていく必要があるだろう。
教育現場は崩壊を始めている。
その音は、これまで誰も聞いたことのない恐ろしい音なのである。
(おわり)
まなラボスクール
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