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学デザ⑤ 社会と繋がるための学び

 学んだ事が活かされれば、もっと学ぼうという気分になるし、これまで見落としてきた身近な物事でさえも大事な知見に見えてくる。一方で学んだ事が活かされない(努力が実を結ばない)のであれば、もう学ぼうなんて気分にはならないし、それに近しいすべての物事にも興味を失っていくだろう。ここではどのようにして個々が学んだことをどうやって活かしていくのかを考えていこうと思う。

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より生きる実感のある社会を作りたい

 自身の行動や選択はずっと何か大きな意志や流れのようなものに引きずられている、ような気がする。生きている実感のなさ。
 でも確かにこうしたいとかこうだったらいいなとかそういう意志みたいなものもあって、大きな流れの中に飲み込まれるうちに忘れていく。こうしたいとかこうだったらいいなというか細い声や想いがもっと社会に反映されていければ、きっとより多くの人が社会に参画している実感も沸くだろうし、とても魅力的な場所になるだろう。
 そう考えた時、学んだことを活かす一番のポイントは「社会としての意志決定の部分」ではないかと思うのでここについてあらためて考えてみる。
 ここに書いたのはとても個人的なエゴをベースにしているけれど、きっと同じように思う人がたくさんいいると信じて、理想について考えたいと思う。

社会としての意志決定の不明瞭さ

 身近な社会の物事は誰が決めているのだろうそんな事を考える、公共施設の建設は誰の意志で、町から町への道路は誰の意志で、各種調査やリサーチは誰の意志で、まぁ大体の事はよくわからない。よくわからないから調べてみようと思っても、特にお金の絡む意思決定についての情報はほとんど見つけられない。見つけられたとしても最終的な大きな金額くらいにまとめられていていまいちそこに至る過程が見えない。
 で後から「問題だ!」なんてニュースをツラツラ眺めてやっぱりねとつぶやく、顕在化していないだけで問題はあちこちに埋め立てられていると心のどこかではわかっているはずだ。

意志決定とイスとりゲーム

 社会における大きな意志決定をしているのは誰だろう、そもそも大きな意志決定とはどのような物事をイメージするだろう。決定する人としては大企業の社長や重役だろうか、それとも資産家だろうか、はたまた政治家だろうか、意思決定とは何を意味するかというと、現代においては何にどうお金を使うかという部分でありその金額の多寡で計る事がおおいだろう。
 意思決定をする人たちは多くの情報や周りの人の意見を集めて行うのだろうけれど、その性質上性別や年代がある程度偏りが生じてくる。またその少ないイスを取り合って大なり小なり争いが起こる、いらぬ争いを避けるにはその場所を明け渡す必要がある。そうして固定化していった権力や利権は勝ち残ったわずかな人たちの意志によって運営され、その後にそれぞれ専門家的ポジションの意見で上塗りされ、最終的にお互いにとって都合のいいようにマスメディアを通じて社会に伝えられる。
 それぞれが属する社会の人数規模や環境によって異なる部分は多いかもしれないが、ここでは国や自治体や大企業などといった組織体をなんとなくイメージしている。

権威から専門家、一般という順

 上記のような前提に対して、全く異なる3階層を考える。つまり学び続ける社会、選択するコミュニティ、牽引する自在人、この3つだ。順番に書いていく。

学び続ける社会

 社会としての意志決定をする前に、各々がその前提知識やなぜその考えに至ったのかを理解し共有できる状態にする必要がある。つまり日ごろからある程度の軸をもって自分たちの属する社会や外の変化などについて良く学びよく考えている必要がある。
 学び続ける大事さは”生涯学習”といった言葉で語られるけれど、それは個人の生きがいや人生の豊かさといった観点から語られる事が多い。そうではなく、なるべく新しい知識や情報や体験に直に触れて、自分たちの身の回りや足下と地続きの世界をしっかりと理解して、個々人が意見や意志を持つという異なる観点での「新しい形の社会教育」の重要性を考えていきたい。そしてそれらを活かせる環境が今のところ無いのが問題だ。
 キャリア教育なら仕事に活かせる、既存の生涯教育は日常に活かせる、学び続ける社会教育は社会に活かせる、というのが理想の姿ではないかと模索している。

選択するコミュニティ

 前述のような社会教育の場で一緒に学び続ける人たちが社会の選択に寄与できるコミュニティとなっていけばとても自然だろう。
 ここで既存の地方自治体を小さな社会の縮図と考えて、意志決定の場所は地方議会を例に考えてみる。小さな市町村であればあるほど形骸化しており、意思決定をする場所というよりも悪い事や変な事をしていないか確認する査問会となっているように思う。また前述の性別や年代の偏りもより顕著であり、もう一方で首長の持っている裁量権はかなり大きい、カリスマ首長のような人が現れれば一気に未来志向になったりもする。だがどちらにせよほとんどの人が受け身な事には変わりはない。
 コミュニティでの選択という意味では、youtuberやストリーマーの行っている意志決定はとても参加型と感じる。例えば物語の感想や意見をコメントで聞いたり、悩ましい選択肢があれば具体的な数字のわかる投票を行ったり、投げ銭で支援したり自分の意見を通そうとしたり、配信者毎にカラーはあるがその都度その都度参加型で一緒に配信を作っている感覚がある。そういう参加型の体験に慣れ親しんでいると、今リアルの社会で行われている意志決定はとても退屈で、スローテンポだ。
 選択するコミュニティを作るためには、議会のような意思決定の場をアップデートしていくこと、前述の学び続ける社会の発想を体現する学校と社会をつなげて、その学校で様々な形で議論をしていくか、大きく2つのシナリオを考えている。

牽引する自在人

 最終的にコミュニティが選択するのは何かという事なのだけれど、こんな姿になりたいというビジョンであり、それを体現したり実現する人は一体だれなのかという人なのではないかと思う。
 つまりコミュニティでイメージした理想に対して、探究を続けてより精細にし、それを実現しようとする人を応援する事、実際にどの程度資金や資源を投じようという選択をするという事かもしれない。
 例えば、ある村で誰かがうちの村にパン屋さんがあったらいいのになとイメージしたとする、聞いてみたら毎日でも通うのになという人が数十人いたとする、その数十人がどんな風にどんなパンを食べたいのかしっかりとイメージをする。その段階になったら、パン屋さんをやりたいという人を内外から募ってみて、予算があれば建設や初期費用への公費から支援したらいい。誰が来るかもわからない補助金施策などを行うよりずっと精度が上がるはず。ある意味コンサルティングやマーケティングの領域かもしれない。
 ただしここでは誰にどれくらい賭けるかというのをコミュニティで選択する事を考える、最初からうまくいかないことも多いだろうし、失敗していくうちに修正する事もあるだろう。そんな風にコミュニティ内での夢を叶える”自在人”を応援していくのが理想の姿と考えます。

全体から、コミュニティ、個人という順

想像される未来

・個々の目指すべき先が変わる
 これが一番重要なポイントだと思うのですが、社会の意志決定に関わるために偉くなろうとか専門知識を付けようという発想から脱却して、なりたい姿になるために教養を身に着け共有して社会を牽引する自在人を目指そうと、社会としての規範の姿と個々人のライフスタイルの理想が一致してくるのではないかなとそんな風に思います。

・可能性や才能を解き放つ
 これまで見いだされてこなかった可能性や私たちの望む社会や暮らしがより可視化され、また中々目を向けられることのない障害や社会的に弱い立場にいる人の意見やより包括的な社会アプローチが可能になるかもしれません。

・より新しくて良いものをスピーディに取り込み 
 特に最新テクノロジーの進歩は個々人の理解の範疇を超えています。日進月歩の変化についていくためには各々興味を持って知識を深め自身の属する社会に反映する必要があり、こうした動きに向いています。

・変化や不測の事態に強い
 前述の話と同様ですが、進歩だけではなく不測の変化に対しても有効でみんなが各々考えて選択しているわけですから、次の新しい選択をする際にどのようにすべきか自ずと見えてくることが多いでしょう。

実装にあたっての問題点

・この社会に誰がついていけるか
 デメリットというか一番大きな問題点は、意志を持って社会に参加したいとどれだけの人が思えるかという点、自然環境に振り回され、社会情勢に振り回され、その中で何とか適応して生きるというのも本来の生物否定すべきではないように思います。”勝ち組””負け組”的な発想や弱肉強食、適者生存的な発想を求める意志も実は強いように思います。

・思いもよらぬ争いを生む可能性がある
 現代の社会システムを見ていてよくできているなと感心する部分は”争いを避ける”ように出来ているということ、みんなが納得感のある物語を文化として継承している。法律的なルールもそうだし会議や式典の手順を改めて考えても、まず文句をつけるにも膨大な準備と知識が必要になるし、実際にケチを付けようとすればさらに多くの手順が必要になる。そのうち暴力的な手段や発想からは離れていく。一方でそれらをすっ飛ばしてみんながみんなより多様な手段で意志を反映しようとしたら、思いもよらぬ争いが生まれる事は想像に難くない。

・選択するコミュニティの条件
 選択するコミュニティへ参加するためには学び続ける事が必須になってくるだろうけれど、その際に何かしらの条件などを設ける事にはなります。ペーパーテストや面接を行うとすればそれは今の社会そのままだし、とりあえず長く参加する事だとしたらより旧態依然とした村社会になるかもしれない、お金やお布施であればビジネスか宗教か何かかもしれない。この部分はとても難しいし答えはまだない。もし可能性があるとすれば自身の個性を元に何かを創り出して人に喜んでもらえるかどうかという事かもしれない。

・変化が速すぎてリスクも大きくなる
 保守的すぎる事が今の世の中の大きな問題としてあるかもしれませんが、進歩的すぎるのもやはり問題かもしれません。いきなり回覧板と世間話の社会からチャットツールとビデオ通話のコミュニュケーション移行するのにはコストもかかるし、またすぐに陳腐化してしまうかもしれません。特にテクノロジーの力でより自在化する社会はとても魅力的ですが変化する事のリスクも考える必要がありそうです。

社会実装をするために・・・

 現代の日本を想像したとき、さてどのようにすればこのような転換が起こりうるのだろうと考えてみる。0から作れない困難もあるが、今の不満もなければ進歩などないのだろう。

・個々人が自分の世界観を創れるくらいまで探究する
 なりたい姿を体現する人間がいなければ、選択する新しい未来が生まれてこないはずで。なのでもっともっと個々人が自分の興味に沿って新しい事を探究すること、そしてそれらを発表する場がとても重要になります。教室でみんなの前で話す、発表会を行う、展示会を行う、ハッカソンなんかもいいかもしれません。どんな分野でもどんな興味でも探究の先には独自のスタイルや世界観が生まれてくるはずで、それらをワタシタチのミライショーとして表現する場があるといいですね。そんな中でスキルや仲間がいればビジネス化するってのは普通ですが、大事かもしれませんね。

・社会としての意志決定の場をより有機的に
 
議会や重要な会議を行うような場をより誰もが身近に感じられるような仕組みを取り入れる事、もしくはそれに付随するような未来志向な教育や文化機関を設置する。より多くの意見や発想を集めて個人個人の望みをより具体的に意思決定に反映していく事が重要と考えます。
 例えば議会の様子は地元TV局やオンラインに動画として残ったりもするけれど、たいてい見にくいし、わかりにくい。その前段の解説からまずはもっと多くの人に見てもらえるように配信者を置いてみたらいいし、その場で自由にコメントできたらいいし、何ならアンケートを取ってもいい。ともかく意志決定の場をみんなが注目する楽しい場にする必要がある。

・未来が今よりいいものかもしれないと伝えること
 最終的には「未来が今よりもっといいものかもしれない」、という期待をより多く人に持ってもらって、よりよい未来のために学んだり力を注いだりという事にどれだけ意識を持っていけるが重要そうです。そしてそれを誰か素晴らしい偉人が作るだけではなく私たち一人一人が選び取れるものなのだとそう心から共感出来るのが最終的に願う所です。

まとめ

 ある意味ではすでに今社会で生まれているインフルエンサーなどの存在などはこうした新しい社会の在り方の提示をしているのかもしれませんが、私たちの暮らしや生きるという部分にあまり直結しないから気楽に繋がれます。
 実はそれらを超えて私たちの日常に利害に周りに広がる環境にまで、意志を反映できるはずで、生きるのに必要なものが大体そろってしまった今だからこそ、私たちはどのように在るべきか真摯に向き合える場があるべきではないかとそんな風に思います。

 今回の問いのはじまりは学び続ける事に意味を見出すのであれば活かす場と目指す先が必要だいうことで、その先を考えた結果とても大きなイメージが見えてきました。どちらかの社会や意志決定の方法がよいというわけではなくて、理想の姿はあくまで理想なので実際の現状やどうやって楽しくシンプルに取り入れていくかなども加味して、身近にもそんな場が広がっていくよう様々取り組んでいきたいですね。

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