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食べ物への愛情が足りない時代

こんにちは、いつものマッシ(@massi3112)です。

1983年生まれの僕は、完食しないと遊びは禁止。今出ている料理を食べてからではないと次の料理が出ない。最低限の食事ができない国もあることを考えて、今の食事はただの食事でなく当たり前でもなく、生きることに繋がる大切な存在だというような言葉で育てられた。僕のおじいちゃんは戦争の経験者で、「一口ごとに感謝しながら今日も生きてこれた」と子供の時から聞いてた。

この教育で生きてきた僕から見ると、現在の大きな問題はいつでもすぐに欲しいものが手に入る、ということ。周りの環境を何も考えず、今の自分は困ってなくて逆に食べることは生き残るためではなく、遊び感覚になっていることが多い気がしてきた。

このような遊びは昔もあったと思うけど、その時にその仲間とだけ。SNSの時代になって同じ遊びは多くの人に見られる。バズればバズるほどエスカレートしてしまう結果、喜ぶ人は1人もいなくて怒ったり事件になったりしている人が現れる。回転寿司事件は1番わかりやすいけど、インスタ映えのために注文して少し食べて残す。そのお店に行く目的は写真とその雰囲気に入って見せるだけ。

悲しいのは、美味しいものを食べたい、そのお店を応援したくて注文して美味しく食べた上で知ってもらうためにSNSに流したい、のような気持ちが薄くて料理より自分を優先している傾向があるということ。投稿の内容も薄くてお店の情報を載せて終了。食べているものに対する情熱、リスペクト、食べるまでのワクワク感がない

「気になるスイーツを食べに行く」は「インスタ映えのために行く」となった瞬間、自分の前にあるスイーツや料理はお金を出せばすぐ出るという感覚になってるうちに、その料理の裏にある大切な部分はなくなる。

料理というのは、命だ。まずはその食材を育てて作った人が美味しいものを取るために苦労して自分の人生もかける。次はこだわりのある料理人によってその食材が形になる。料理人の思い出と情熱でできてるからこそ、「大切に食べる」ではなく「大切にいただく」の気持ちになる。最後に一口ずつ食べながらそのストーリーもその味も味わえる。ここから「知ってもらいたい」の気持ちになるはずだけど、最近はそうではない。目で判断して可愛いものが欲しいだけ。

いただきます」「ごちそうさま」「手間を感謝する」「命をいただく」の日本の食文化はとても大事で忘れないで欲しい。日本料理は神様からのいただいたもの、要するに、神様からの贈り物ということで大切に預ける。大切に味わえる。このことを日本に来て日本人から学んだ。

僕にとっての食べ物は生き物のよう。生き物だからこそ大切にしたい。
可愛いケーキより、大切な食材と時間と命をかけた料理人がいる。美味しく食べてもらえるために毎日努力して頑張っている人にとって、投稿よりもまずは美味しく食べて笑顔になることの方が宝物。この宝物を便利なSNSに流すことで、より多くの人にとっての宝物にもなる。
ここが違う目的だと、料理人の心が失恋のようになってしまう。

食べるというのは命に感謝していること。ある意味、成長の一つでもある。美味しいものを食べるより、特別な体験に感じるのだ。

Massi

みなさんからいただいたサポートを、次の出版に向けてより役に立つエッセイを書くために活かしたいと思います。読んでいただくだけで大きな力になるので、いつも感謝しています。