身の周りの「形」だけ

最近は身の周りの形式主義にウンザリする。形式主義とは形だけで内容を伴わないことを指す。おそらく多くの人が毎日どこかしらで目にしているはずだ。


仕事で言えば「ハンコ文化」がそうだ。日本では色々な場面で押印が求められる。ハンコを押すことで同意や承認を表すというシステムであるが、形式化している場面も多くある。

私も職場で上司の押印を必要とする時があるが、形だけポンポンと押したり、上司によっては「軽い内容であれば引き出しから勝手に取って押しといて」という人もいる。私はそれは気が引けるので、引き出しから取る場合も一応声掛けはするようにしている。「勝手に取って押しておく」が成り立てば、ハンコ文化はたちまち崩壊してしまう。

だがこの上司の言葉から滲み出るのは「ハンコ文化には私もウンザリした」というメッセージである。そう、上司だって好き好んでハンコを押しているわけではない。このように「ハンコ文化」にウンザリしている人はけっこう多いと思う。それが形式主義につながる要因であろう。



また近頃の飲食店は無闇矢鱈に、やれパーテーション、やれアクリルプレートという様相でまるで店内が文化祭の催しのようになっている。例のウイルスを防ぐにはこうするしかないのかもしれない。改めて、見えない相手の怖さを再確認させられる。

きっちりと客席と客席を隔てている場合は何の文句もないのだが、適当なパーテーションを設けている店には呆れてしまう。先日行ったラーメン屋さんのカウンター席はカウンター前方の調味料のあたりしかパーテーションで仕切られておらず、カウンターの大部分、また隣り合う客のところには何も無い状態だった。

これには呆れた。飛び散る胡椒でさえ防止できないのではないかと思った。中途半端にやるなら変にやらない方がいいのではないかと思う。適当なパーテーションを吊し上げて「ゴールドステッカー認定店舗」を名乗るなんてまさに形式主義的だなと感じる。安い機械を使った検温なんて1番形式的な作業だとも思う。

ただ一方、そういう何か「対策を講じてます感」を出さなければ営業ができない社会情勢であるというのも、また事実だ。なにせ相手は見えないからである。消費者としての立場からすれば、営業さえしてくれればそれでいいという思いも分からなくはないが。


こんなことを書いたのは先日購入した宮台真司の『14歳からの社会学』に以下の記述があったからだ。

もともと日本社会は形にこだわる文化を持つ。昔もいまも「社会がちゃんとしてる」「学校がちゃんとしてる」っていうのを、目に見える形で理解しようとする。だから「共通前提」がくずれて中身がグチャグチャなのに、形だけ整えて安心したがることにもなりがちだ。
中身に自信が持てないから、形だけ整えることで安心しようとすることさえある。じゃあ、中身に自信が持てないときに形にこだわることは、やっぱりいけないことなのか?たとえば、ナンバー1じゃない学校に制服や校則があるのは、マズいことなのか?


ちょうど最近、「形式的なことが多いなぁ」と感じていたので、この記述が目に留まったのだ。日本とはそういう国だと書かれていて、やっぱりかと思った。どうりで形式主義がたくさん目につくわけだ。



形式主義はよくわからない。せめて形だけでもという高い意識なのか、面倒くさいからフリをしているという低い意識なのか。意図しての形式もあるだろうし、惰性での形式もある。我々は多くの形式を与えて、受けて、生きているのだ。

今日もたくさんの形式的なモノに出会った。それは我々の文化・慣習として存在するので、多くの人はそれを疑わない。形式主義には中身がないが、それでも毎日それなりに社会がまわっているのを見ると、あながち悪いモノではないのかもしれないなぁとも思う。これからも多くの形式に出会うはずだ。そう、それが日本という国なのだ。

形だけどうぞ。



【引用】
宮台真司『14歳からの社会学―これからの社会を生きる君に』2008 世界文化社

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