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ぜひ教えたい本、五選。(書評・読書感想2023下半期)

2023年下半期も、いろいろな本を読みました。読了数は30冊です。その中から、「ぜひ、みなさんにお教えしたい5冊」を、上半期と同形式でご紹介します。今後の本選びのご参考になれば幸いです。また、ふつうの読みものとして楽しんでいただいてもうれしいです。それでは、ネタバレ前提の感想・書評になっていますのでご注意を。

いきますよー!


『日本人の美意識』 (中公文庫)
ドナルド・キーン 中央公論新社 / 1999年4月18日発売

日本文学・日本文化の研究で名高い著者の代表作。論説やエッセイなど9編収録。和歌や古典、能、建築などを例に、日本人の美意識というものをあきらかにした標題作の論説から始まります。

日本の寺社建築の飾り気のない簡素な線で作られている単純性などに現われているように、日本人の美意識は禅の美学と相通じるものがあると著者は指摘しています。くわえて、モノクローム、曖昧性、暗示性、といったものを好む美意識についても述べていますし、その暗示性を発揮し保つために、均斉や規則正しさを避けるところがあったことを指摘しています。規則正しいものって、その目的がはっきり明確なるがゆえ、暗示的な要素が消し飛んでしまいます。

続く『平安時代の女性的感性』いう論説では、日本の文学は多くの傑作が女性によって書かれたことを指摘しています。いつの時代もそうだったわけではありませんが、八世紀から十三世紀にかけてめざましいものがあった、とあります。それまで中国の文化の影響で、男性社会で用いられる漢文こそが公式の文書となり、かな文字は女性が使うものとして軽んじられてきたわけですが、そのかな文字こそ日本人の感性が引き立つものでした。そして、女性作家の作品が持つ内面性が、『源氏物語』『枕草子』『更級日記』などにはよく宿っているわけで、現代の日本文学にとっても、明治以来、西洋文化の洗礼を受けても、そういったところが始祖となっていて、受け継がれているところなのでしょう。

日清戦争が与えた日本文化への影響という骨太の論考もあります。浮世絵の一種である錦絵がその当時人気があり、戦争画がよく売れたようですが、だんだん写真にとってかわられていく。演劇も、それまでの主流としての歌舞伎ではなく新劇の人気が出はじめますが、その理由は戦争劇にありました。歌舞伎の方法論ではうまく日清戦争を伝えられず、新劇の写実性がウケたわけです。そのころの民衆はまったくもって戦争支持で、戦況を伝えるニュースに多くの人たちが興奮していたみたいです。明治維新から太平洋戦争まで。どうして国が変わっていったのかをわかるには、その間の日清戦争と日露戦争の影響の大きさがあるのですね。世界的な、時代の潮流に巻き込まれもしながら、そうやって日本は国家主義になっていきます。

第一次世界大戦前に欧米で人気者になった元芸者の舞台女優についての論説も。芸名は「花子」。彼女を題材に森鴎外が短編を書き、ロダンは彫刻を何点も作った、と。たぶん初めて知ったことではないのだけど、初めて知ったのと変わらない知らなさでした。こういうことを知ると、その時代の幅の広さ、ダイナミックさがうかがい知れてきます。

一休和尚の論考もあるのですが、これがとてもおもしろかったです。一休さんで知られる一休宗純って、その神童時代から徐々に退廃してくような印象をその人生から受けます。酒を飲み、魚を食べ、女たちと交わった禅僧なんだけれど、当時の仏教界隈の不安定さと新たな立ち位置を見つけようという懸命さのために、そういった通常と異なる姿勢で生きることになったのかなあと思います。というか、一休は誠実であろうとしたその姿勢と当時の社会の風潮との化学反応の結果としてそうなっているふうな印象です。隠れて女遊びをする僧、教義を金儲けのために曲げる僧などがたくさんいたみたいですし、そういった在り方がメインストリームの時代だったようです。一休が残した数々の詩は文学作品としての評価はそれほど高くないそうなのだけれど、僧の身分で愛や肉欲の詩を残してなどいるその堂々としたさまが、まさに一休らしさなのかもしれない。「俺は隠し立てしない。これだけのことをやっている。悪いか」との開き直りのような叫びと挑戦。そんなふうに感じられるのです。僕が推測するに、一休のそうした行いって、偽善を働く僧侶たちが自分たちの行いを一休のように表沙汰にして平然と構えるようにさせるための誘い水でもあったのではないのでしょうか。もしも数多の僧侶たちが一休と同じように、自らの破戒を隠し立てしないようになれば、そこから一休は次の手を、それもすごく効き目のある絶妙な手を打ちに行ったのではないか。現状を覆し、より誠実な仏教界にしようとする一手の準備があったのではないか。まあでも、これはあまりにもピュアな信頼を一休に対して持ちすぎているのかもしれませんが。

というところですが、1990年発表の書籍でも、今読んで色褪せた感じはありません。現代でも生き続ける、その掘り下げられた思索と分析なのでした。本文は翻訳文なのですが、これがまたとても読みやすく、まるで翻訳ものではないかのようにするすると読めてしまうことうけあいです。海外の文化で育ってきた人物による視点だからこそ、当の日本人としたって、「なるほど、そうだったのか」と、それまでよくわかっていなかったような、はっきりしていなかった曖昧な認識を明確な言葉にしてくれているというところはあるでしょう。ちょっと大げさな喩えではあるのですが、水面に身を映す程度でしか自分の姿を見たことがなかった人が、磨かれた鏡で自分の姿をしっかり確認できた、みたいな客観的に自分を見られた経験に近いものが、本書にはあるかもしれません。


『新装版 おはなしの知恵』 (朝日文庫)
河合隼雄 朝日新聞出版 / 2014年12月5日発売

いろいろな昔話を、ユング派心理療法家の故・河合隼雄さんが読解をしてその深いところを示してくれる本です。
まずは白雪姫の章。白雪姫が毒りんごのために死と同然の状態になったときの河合隼雄さんならではの深層心理学的な解釈がこちら。

かわいかった子が何となく無愛想になり、無口になる。体の動きも重くなったように感じられる。実は、このような時期は成長のために、ある程度必要である。心のなかはこのような状態でも、何とか外面は普通に取りつくろって生きている子も多い。
このような時期を私は「さなぎ」の時期とも言っている。毛虫が蝶になる間に「さなぎ」の時期があり、その時は、まったく外的な動きがなく殻のなかに閉じこもっているが、内的には実にものすごい変化が生じている。この内的な変化を成就せしめるためには、外の堅い守りが必要なのである。
(中略)さなぎの時期に親があわてて、その殻を破るようなおせっかいをすると、子どもは破滅してしまう。子どもにとって必要な内閉の時期を尊重することは、親にとってなすべきことである。しかし、自分自身の不安の高い親は、子どもの内閉に耐えられず、ついつい余計なことをしてしまう。(p54-55)

『新装版 おはなしの知恵』

僕個人はさなぎの時期に殻を破られてしまったタイプです。そんな痛みや苦しみを知る身からしてみれば、著者のこの解説は、ほんとうによく言い得ていると言えます。思春期に余計な干渉はいけませんね。

次に七夕の話。混沌によって生命力が回復する、という箇所で「ああ!!」とこころの中で快哉を叫びました。

七夕の話の意味することはなんでしょうか。織姫と彦星が会わない期間、彼らはそれぞれの仕事をしていてそれは秩序の維持を意味しています。7月7日だけが男女が出合うことが許されるけれども、その日は仕事が放棄されているし、二人だけの時間になるしで混沌を意味することになります。

男女の結合に意味を認めるが、だからと言って、その関係をできるだけ長く維持しようとするのではなく、むしろ、すぐに別れ、また会う日まで一年間は分離して暮らすべきである。分離していてこそ、秩序は保たれると考える。これは、男女の結合の意味の深さ、そのことによる生命力の回復などを知るにしても、それを続けることの危険性と無意味さをよく知っているからである。(p112)

『新装版 おはなしの知恵』

秩序を離れたところに、生命力の回復や奥深い何かがあるのだけれど、それをずっとやっているのはナンセンスだし危険、それは秩序がぐらついてくるから、なのでした。秩序と混沌のバランスのとり方が七夕の話から教えられるのです。世界の維持としては一年に一度くらいの混沌の頻度が好ましいのでしょうね。人間の個人的な社会性だったなら、男女が出会うまでのスパンはもっとずっと短くていいような気がします。そこは七夕が世界を担うスケールの話だから一年に一度のスパンになったんじゃないかなあと思いました。物語を作った人、あるいは採集して整えて後世に残した人の優れたバランス感覚がそうしたのかもしれませんし、物語が多くの人の耳に触れたのち、その物語が大勢の人間のそれぞれの感覚によって磨かれながらも、このかたちがいちばん適しているのではないか、とされて残ったのかもしれない。そういったところを想像してみるのもおもしろいです。

最終章のアイヌの昔話では、近代における、「区別」や「区分」での「合理化」や「効率化」を進めていくやり方とは対照的に、自然などと混然一体になるという姿勢があるということをうかがい知ることができます。近代のやりかたばかりしか眼中になくて、他の考え方にはまるで考えが及んでいない者、あるいは他のやり方があるなんて思いもしていない者の多いのが現代人だったりしませんか。もっと生き方は創造していいのだし、近代の生き方を無条件に踏襲しなくてもいいのですが、生き方の範囲はここまでというふうにあらかじめ決まっているものだと、その狭い範囲をゆるぎない前提と決めつけてしまっている人は多いのではないでしょうか。

といったように、ユング派の心理療法家ならではの解釈が、どんどん深みを増していくかたちになっています。洋の東西をとわず取り上げられた昔話たちは、とても個性的で教訓や示唆に富んでいて、解釈してみるかという気になって相対してみれば、相当な深さを持ち得ていることに慄くほどだったりします。だからこそ、昔話は生き残る力を持ち、知恵を伝えてきたのでしょう。

最後になりますが、絵姿女房という昔話、これが僕にとってはいちばんの好みでした。今回はじめて知った話です。どういう昔話か知りたい方は検索してみてください。すみません、書くとちょっと長くなってしまいますので、あしからずなのでした。


『鍵のない夢を見る』 (文春文庫)
辻村深月 文藝春秋 / 2015年7月10日発売

人気作家・辻村深月さんの直木賞受賞作品。5つの短編からなる作品です。

まず、初めの「仁志野町の泥棒」。子どもの目線から見える、田舎町での白黒つけない世間が上手に描かれています。本短編において、白黒つけないでいたことが良かったのか悪かったのかは、本当にわからないんです。盗癖の罪を責め、罪を起こさせないための田舎町の人々の行いすら、それがいいのかどうかわからなくなりました。どうにもならない何かがあって、一面的な薄っぺらい正義感でそれに意味づけをしていいのかどうか、疑問が湧いてくるのです。
でも、少なくとも、律子とその家族はその地区で三年間暮らし、引っ越さなかった。他の地区では一年ごとに引っ越していたのに。つまり、包摂されていたのです。排除ではなく。包摂とは、こういった割り切れなさを内包するものなのだな、と本短編から知ることになりました。包摂は、優しさだとか甘い感じだとか親愛の情だとか、そういったものだけでできているわけではなくて、苦味や自制や受容や心の痛みや吐き気や嫌悪感や、ともすればそういったもののほうが多いものなのかもしれない。この作品って、「包摂する」ということがどういうことだと思うか、という問いかけをしているともとれる作品なのではないでしょうか(そしてそのデリケートな面も描かれています)。「包摂とはこういうものだけれども、それでも包摂するだけの度量や力量があなたたちにはあるだろうか?」という問いかけでありながら、包摂していくための想像力のタネでもあると思いました。包摂をする側、される側の両面の立ち位置に、読み手が立てるつくりになっていたのではないでしょうか。

二編目、「石蕗南地区の放火」。文体のトーンは落ち着いているんです。物語を語る主人公の女性の堅い性質がよく出ている。だから本来は笑えないはずなのに、彼女に気を持っている大林という男の描き方のそのブラックユーモアの度合いがえぐすぎてもう、読んでいて可笑しくてお手上げでした。最後のあたりまでくると、そこでなんとなしに明かされる大林の下の名前にすら爆笑です。こんな作品書いちゃうのやばいよなあ。八百屋お七の名前が出てくるあたり、本作品のモチーフにもなっているのだろうけれど、作者のトータルでの技量がすごいんだと思う。とにかく僕は、この短編では、主人公の女性目線を超えて、相手役の男性に注意を持っていかれました。

三編目、「美弥谷団地の逃亡者」。地方の若者の話を見事に書いているなあ、とため息交じりに思いました。人生は上手くいかないし、教養もないしという層です。とくに男、へんに礼儀にうるさかったり出会い系を使っていたり芸能界に上から目線で一家言あったり、なんかよくわかるのです。そしてそこにDV(暴力)の逃れようのない事実があったように、粗暴な傾向がありながら、相田みつを愛好していて、彼女の方もそれを「詩人だ、すごいものだ」と思いもしている。相田みつをが悪いのではないし、愛好するのはいいことだと思うのだけれど、そのポジションはわかっていない、という感じがあります。
これはフィクションなのだけれども、彼らは現実に厳然と存在しているそういう層であって、現実を言語化したもののようにヒリヒリと感じられる。こういう話を読むと、もっとモノを知ろうとしようよ、と思うのだけど、実際に地方のこういった人たちにそう言ってみてもまず届かない。そういう難しさがあることを痛感させられる。自己肯定感が、無いようであるし、あるようで無い、というか。いや、あってほしい部分には無いし、無くていい部分にある、というか。著者はよくぞこういった層の話を言葉にして物語にして提示してれた、と思います。こういったレイヤーにある人ではない著者が、このレイヤー層の目線を得て、書いている。すごいことです。

「芹葉大学の夢と殺人」。主人公は夢を持っているし、彼氏も夢を持っている。その彼氏なんかは甘やかされたような世界から夢を見ているところがあります。これが、小説でなんとかなりたいと考えているような僕には痛い。僕と重なる部分がある。僕にも甘いところがある。でも、この小説で描かれているものに僕は自動的に引き寄せられて、無理に当てはめられて糾弾されているような気がしてくるのでした。それは、思い込みと決めつけであり、無理やり判断され批評や批判をされることと似ていると思います。この小説の彼氏とは違うのに、重なっている部分から独自にわかりやすく類推されたものへと決めつけられ、確定されて、その確定されてできあがった枠組みに当てはめられてしまうみたいなものです。わかりやすく感じられる物語に無理やり収斂させられてしまう。それは僕ではないのだけど、わかりやすく言語化され、イメージ化されてしまっているので、そこに引き寄せられてしまうのです。そういう意味で、創作物にはそういった種類の罪もあるのだな、と知ることになりました。別に、著者や作品が悪いというわけではまったくないです。これはしょうがない範囲の、フィクションのメカニズム。

「君本家の誘拐」。読んでいくと、主人公である母親の神経質さと視野の狭さがよくわかってくる。また、夫の無神経さがその対比になって感じられる。妊娠から出産、赤ん坊の子育てまで、細かい描写が僕には新世界でした。

読んでいると、著者はおそらく、小さいころから世の中にしっかりコミットする、あるいはしっかりコミットする気持ちを忘れることはなく生きてきたんじゃないか、と思えてきました。そして、そうであるがゆえの彼女の観察や洞察からは、誰も逃れられないのだ、と。そう考えるに至った僕も、辻村さんの本作に宿った卓越した才能に、観念しました。

ほんと、藤子不二雄A先生による『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造の決めアクション「ドーン!」みたいなのを実際にやれちゃうくらい、人の内面の深くを見通すことができそうな感じがあります。レアスキルですよね。

主人公の女性たち、彼女たちの思考や言動はいちいちもっともなのだけど、実は相手役の男たちのようにズレた部分が、わかりにくいのだけど、ある。巻末の林真理子さんとの対談でもそこに林さんは触れられていて、「すごくテニクニックがいること」と、辻村さんの力を評価されていました。また林さんは、言葉の優れた的確性についても触れられていて、僕も本書を読んでいて辻村さんの言葉の旨さに舌を巻きましたが、的確性という言葉はまさにぴったりなのでした。

辻村さんの作品は、『サクラ咲く』『朝が来た』に続いて三つ目になりました。今作によって、作家の幅の広さを痛感しました。そう、幅の広さについては、一人の人としても、かくありたいものですね。


『本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る』
伊勢崎賢治 朝日出版社 / 2015年1月15日発売

インド、東ティモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどで起こった紛争や戦争による対立を仕切ってきた著者による、福島高校の高校生への講義と議論の記録。武装解除の話や子供兵の話はとくに、ごくっと唾を飲みこむ緊張感に包まれながら読むことになりました。

戦争がらみの国際問題の本で400ページを超えるボリュームです。手こずるかな、とちょっと気構えをして手に取りましたが、それでも話し言葉で進んでいくので、意外とわかりやすく読めました。それに、高校生にもわかる論理と言葉づかいですから、なおのことでした。

本書の性格がどういうものなのか、「講義の前に」と題された著者と高校生がはじめて対面する場面の様子の章にある文言を引用するとわかりやすいので、以下に記します。

僕は、人をたくさん殺した人や、殺された側の人々の恨みが充満する現場に、まったく好き好んでじゃないけれど身を置き、人生の成り行きで仕事をしてきました。正直言って、楽しい思い出はありません。だって、今、目の前にいる人間が大量殺人の責任者で、自身も実際に手をかけているのがわかっているのに、笑顔で話し合わなければならないのですから。
こういう話は、日本の日常生活とかけ離れていて、別世界で起こっていることのように聞こえるかもしれない。でも、所詮、人間がすること。同じ人間がすることなのです。
なるべく、日本人が直面している問題、過去から現在に引きずっている構造的なものに関連させて、僕が現場で経験し、考えたことを君たちにぶつけてみたいと思います。(p47-48)

『本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る』

第一章ではまず「構造的暴力」という言葉ががでてきます。わかりやすいところですと格差や貧困、差別、そういったものを「構造的暴力」と呼びます。そして、「主権意識」。米軍が駐留している日本に、たとえばテロリストが潜伏していて、それを米軍が日本政府に知らせずに捕獲作戦・殺害作戦をやったとします。そのときに、日本政府は強く抗議などできるのかどうか、そして日本人はその作戦にどれくらい嫌悪を持ったり批判したり抗議したりできるのか。そういったところに関わってくるのが「主権意識」です。後半部では、「原則主義」と「ご都合主義」のバランスの取り合いの話があります。たとえば「人権は守らねばならない」というのは原則ですが、現実としてどうしても守れない場合もあります。守れないことを容認するのが「ご都合主義」ですが、社会の風潮として、この「ご都合主義」が強すぎるように著者は考えている、ともありました。「原則主義」も大切だから、ほんとうならパワーバランスをとりたいわけです。

もはやこの第一章のみでもおなかいっぱいになってしまうくらい、現実的な生々しい問題がいくつも取り扱われています。正解のない、割り切れない問題なのですが、状況や内情を鑑みながら、最善手を見つけだして打っていかないといけない。それも、相手の細かい心理や信条、立場を想像し考慮して、ときに厳しくしたり、ときに相手に利したりしながら、交渉を遂行していく。でもって、めちゃくちゃ緊張感と重責があります。そういった現場を経験してこられた著者からの高校生への解説や問いかけを、読者も頭をひねりながら聞く(読む)ことになるのでした

第二章以降は、セキュリタイゼーション、脱セキュリタイゼーション、子供兵、憲法9条、核兵器、原発などにいたっていきます。そのなかであらためて感じたのですが、日本人は原爆を投下された恨みを、アメリカに対してではなく、概念としての戦争に向けました。これってほんとうにすごいことではないでしょうかねえ。僕には日本人の素晴らしいところに思えました。憎しみの連鎖を回避していますから(これはp291あたりの話でした)。

国際支援・援助のところも考えさせられました。他国への援助をする大国、アメリカにしろ中国にしろロシアにしろ、援助先の国からの利益を考えていて、「地政学的に重要だから密接になっておこう」「この国で採れる鉱物が重要だから親しくなっておこう」などの打算が強く働いているものだそうです。かたや日本のやる国際援助は、あまり国益を考えずその国の発展や平和のためを思ってやっている意味合いが強い正直な国際援助なのだとあります。これをおひとよしととうかどうかなんですが、著者も言っているのですが「だからこその強み」ってあるような気がします。日本の外交って、こういう正直さ、つまりあたりのやわらかさを基本として信頼を築いたり、向こうの警戒心を緩めたりできるかもしれなくないでしょうか。

また、援助先の国の治安が悪くならないようにとか、賄賂などの汚職がはびこらないようにとか、援助した金品が中抜きされないようにとかを考えに入れて援助するには、その国の内情をよく知らないといけません。内情を知らずに援助をしたがために、その国のバランスがもっと崩れて激しい内紛に繋がることもあるみたいです。そういうふうに考慮して援助・支援をすることを「予防開発」と呼ぶそうですが、著者の考えは、「予防開発」のための(もっと言うと戦争を回避するための)諜報活動って必要なんじゃないか、ということでした。諜報活動はいわゆるスパイを放って、他国の情勢を探り自国への脅威はないかを知り、相手国をくじく弱点をつかみ、といったように、自国が勝つためのものといった性質が強いのかもしれませんが、うまく戦争を回避するための外交交渉のエンパワメントのための諜報活動があってもいいんじゃないか、と。よく言われるように、「戦争」は「外交の失敗」にあるのならば、その外交能力がどれほどのものだったのかが知りたくなります。その外交能力を支える活動がどれだけなされていたのかが気になってくるものです。相手国をよく知れば、切れるカードは増えそうだし、効果的なカードが手に入ったりもしそう。そのための諜報活動は、現実的に考えて、あってもいいのかもしれないですね。

というところですが、恥ずかしながら、想定外の話がたくさんありました。国際問題や国際政治の裏側で、現実にその状況の都合にあわせて駆け引きや妥協をしながら、鎮静に向かわせたりしている。きれいごとだけじゃ無理というか、一枚めくると、きれいごとなんかはさっぱり通用しない状況だったりするみたいです。それは、それぞれがサバイブするために真剣だからそうなるのかもしれません。サバイブするためには、様式よりも実益なんです。そういう意味では、こういう本を読むことは、「人間を、よりもっとよく知る」ことにもなるんだと思います。僕の場合は、それゆえに自分の生ちょろさがわかるような読書体験でした。


『現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ』 (筑摩選書)
田口茂 筑摩書房 / 2014年12月11日発売

フッサールの『現象学』を基盤として、著者が一般的な言葉を用いて照らし出していく現象学の地平を解説します。そしてその地平の入り口まで道案内をしていただきながら、その地平を冒険していく準備をしたり、実際にちょっと思考の冒険を試みたりできる読書でした。とても良書です。

まず、「確かさ」についての論説から入っていきます。「確か」であることは、ことさら言及されません。いちいち意識せずにいても事足りていることが「確かさ」。つまり自明な物事なのです。自明ゆえに、意識の主題にはのぼってきません。「夕食は鮭を焼いて食べようかな」と考えるようなことは主題的な意識です。そう考えているときに、腕組みをしたり、頭を掻いたりしているといった行動は、「それはなにか」を問おうともされない自明な行動です。別の例をいえば、初めて行く札幌のどこどこまで運転していくとき、ナビをみたり頭の中で考えたりしながら、通る道を選択していきます。それは主題的な意識のほうの物事です。運転中に、信号を確認したり、カーブを曲がったり、といったことは、どちらかというともはや自明の行動で、いちいち強く意識せずにやっています。

大雑把にいうと、現象学はこの「自明なもの」を探求し、明らかにしていく学問です。そして、自明なものを探っていく方法としては、まずどうしたらいいのか、を考えていくと、「本質」「類型」「自我」「変様」「間主観性」といった概念を通っていかざるを得なくなるのです。本書は、そのあたりを扱っています。

読み終えてわかるのは、静止して見えたり、感じられたりする事物が、実はめまぐるしいくらいの動的な事象だった、ということです。というような視座を獲得できる読書でした。

感覚的なところを扱いもしますし、言葉を丁寧に尽くしてこそわかる分野でもありますので、短いレビューで概説するのはちょっと難しいです。興味を持たれた方はぜひ、本書をあたってください。では、以下で、気になったところ、思うところなどを書いていきます。

つまりわれわれは、「絶対に確かだ」と信じているわけではないことを、とりあえず「確かだろう」と見なして、行為し、生活しているのである。絶対に確かではなくても、われわれは何かを信じることができる。そして、生活していく上では、絶対的な確かさを求めるよりも、ある程度の確かさを信じられることの方が、むしろ重要である。逆に、「絶対的な確かさ」をどこまでも追及していこうとすると、このような日常生活の確かさが崩壊の危機に瀕する。「この食品は絶対に安全なのだろうか。見えない雑菌や農薬で汚染されているのではないか。」このように疑い始めれば、何一つ安心して食べることもできなくなる。(p31)

『現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ』

序章の部分からの引用でした。「生活していく上では、絶対的な確かさを求めるよりも、ある程度の確かさを信じられることの方が、むしろ重要である。」という部分は大切です。強迫症は、これができなくなります。でもって、家族にもそれを強いる。大変なのはそういうところです。強迫症は、子どもの時分からなる人も多い症候群だと言われているけれども、これ、仕事と生活とのON-OFFがつかなくなってきたみたいな人もなっていきそう。仕事は完璧にやらなきゃ、と頑張ってその論理が生活にも貼りついちゃいます。仕事で評価されたり有名になって崇められたりした人が、家庭ではずいぶん迷惑な人だった、みたいな例にはON-OFFができなくなったっていうものもありそうに思いました。

次に、p69あたりでしたが、サイコロの一の目が見えたとき、その側面の二の目や三の目は見えたりするけれど、六の目は見えなくて、でも「ある面が見えてくれば、別の面が隠れる」ことを自明のものとして僕らはわかっている、というところに肯きました。横に逸れてしまうけれども、これ、同様に、人間の好ましい面を見せることで好ましくない面を隠すことにも通じているように思えました。外面の部分です。また、「ある面が見えてくれば、別の面が隠れる」のだから、戦争国が国民に対してする公式発表や、海外向けの発表に「作為」が込められるだろうことがわかります。そして「政治」と呼ばれる行為ってこういう一面はどうしてもありますよね。

続いて「本質」についての部分を。「本質って何か」と問われたら、モノやコトの中身に実在するもののように考えがちかもしれません。でもたとえば、リンゴと薔薇の場合、両者をつなぐ「赤」という要素が「本質」というものなのです。共通する要素が両者の間の「本質」。現象学では、「本質」とは実在せず、あくまで媒介者だと考えるのでした。

リンゴ、薔薇、フェラーリ、朱肉など、それらは赤を「本質」として結びつく。形の違いなどはコントラストとなります。この結びつきを「連合」の現象と言います。「連合」は時空を飛び越え、現実と想像の垣根も超えて起こる現象です。こういった「本質」の「連合」って人間心理ではよく起こっていますよね。共通点、同一性といったものを、人間はつねに求めています(ファッションなんかでは、差異を求めていたりするけれども、それだってまず同一性を求める心理が前提としてあって、それに抗っているとも考えることができるのではないでしょうか)。そして、古典を読んで孤独が緩和される場合なんかは、時空を超えて著者と読者が、その本質に同一性を見出している。人間は、「同じもの(本質)」に惹きつけられ続けている。それはあまりに自明なもので、意識されていないくらいなのだけど、そういったことを意識化していくのが現象学なのでした。

現象学における「本質」の論考は、たしかプラトンだったけど、「イデア」という概念についてさらっと知識があるととっつきやすいと思います。

次に、「本質」とちょっと似て感じられるかもしれない「類型」について。

「われわれは現れてきたものを、いつも何らかの類型のもとで見ているのであり、この類型的なものの見方を基本として、それがうまく機能しないときに、はじめて個体的なものの個性的なあり方に眼を向ける。」(p138)

『現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ』

人間はいかに個別性を見られないのかがわかります。

「ほとんどの場合、われわれは個体的で比類がないはずの対象を、類型の一事例としてしか見ていないのである。」(p138)

『現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ』

たとえば医師だって診察するときに症状を類型的に判断します。でも介護の問題や家庭の問題、個人の問題など、類型的に見ることが誤解に繋がるケースもたくさんあるんです。「前提を疑うこと」っていうのは、類型的な視点をずらすことに繋がることでもあるなあと思いました。

最後に「間主観性」についてのところから。「間主観性」は、たとえば自己と他者の身体が同じ場にあるとき、身体同士は響き合う、というもの。誤解を恐れずに言うならば、これはプロトコルがお互いのあいだで成立している状態みたいな感じと表現できるんじゃないでしょうか。で、バックグラウンドで情報のよくわかんないやり取りがあり、それゆえに結びつくようなところもあります。響き合いは、贈与論で言われていることにも通じる概念・現象なんじゃないかとも思いました。贈られたモノって、送り主と受取り主のあいだで響き合っていませんか。また、顔の見える農家さんの作ったかぼちゃを頂くとき、そのかぼちゃって、農家さんとお客さんの間主観性的な象徴みたいな性質があると考えてみたり。

あと、おまけですが、「変様」のところで語られる現在性について。現在ってものは、「それ、今が現在だ!」と言ったとたんに過去に過ぎ去っているものです。今ってものを切り取ってみせることは、厳密にはできません。だけど、今を強烈に感じるときってあるなあと。打者が速球をバットにミートした瞬間なんて、今を瞬間的にとらえた感覚を持ってないでしょうかねえ。くわえて、現象学ではふだん隠れているものとされる自我までが、その瞬間に把持されるんじゃないかと思えるんです。自我は、やっていることが自明的で意識に上っていない時間を送っているときには意識されません。道に迷ったときなど、「え、ちょっとまって」となって自我の出番がやってくるとありました。

『現象学という思考』はかいつまんで説明するのが難しいので、以上のようなかたちで断片的に書いてしまったのだけど、それだと伝わらないんだろうなあという思いがあります。『現象学という思考』自体はとっても丁寧で慎重で親切な言葉の使い方で書かれていますから、そのまま読めばまず飲み込めます。ただ感覚的な話なので簡単に言えないのです。

現象学はいろいろと応用されるとエキサイティングだと思います。前に入門書を読んだ行動分析学も疫学も、現象学が応用された分野ではないかなあ。最近では、Amazonを眺めていると、ケアに関しても現象学が応用されているふうなタイトルの本を目にしたりします。また、間主観性という考え方は、ケアの現場についての本で言われているのを目にしたことがあるのですけれども、「関係性の主体性」という考え方とすごく近いと思います。そういったところをうまく理解する上でも、頭の体操をするみたいに、こういった現象学の本に親しんでおくのもよいのではないかなあと思います。


以上です。読んでいただきまして、ありがとうございました。

よい本って巷にあふれていて、「本とのよい出会い」の確率って、プロ野球の首位打者の打率よりもずっと高いぞ、と個人的にいつも思っているんですよねえ。みなさんはどうですか?
さてさて、来年の上半期もこの「五選」企画をやるかもしれません。そのときにお目にかかりましたら、またどうぞご贔屓に。


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