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パパ活はコソコソ、接待は仕事、おかしくない?(義務説倫理学を考える、その1)

◎「倫理的思考とは」こちらも読んでくれるとうれしいです
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「体の関係のないパパ活」も倫理的ではないのか?

パパ活と接待に倫理的な違いはあるのか

最近、よく聞く言葉のなかに「パパ活」というものがあります。

男性(たいていはお金のある中高年)が、女性の「パパ」になって、ちょっとしたデートのお礼に、食事をごちそうしたり、高価なプレゼントをあげたり、場合によっては現金を渡したりする、ということらしいです。

いや、それだけじゃないだろう、いわゆる「援助交際」とおなじこと、「対価」として男女の関係もあるはずだ、……この辺はっきりした統計もないのでよくわかりませんが、そういう「体の関係なし」のものも、少なくないようですよ。

こうした「体の関係のないパパ活」は、倫理的にみてどうなのでしょうか。……もちろん、ここで、これが正解、のようなお話はしません。一人ひとりが、自分の考えで結論を出すことだと思います。

とはいえ。

そうしたパパ活をしている人を擁護するなら、こういうことが言えると思います。

会社の利益のため、あたかも立派な仕事のように、接待なるものが、立派な企業と企業の間で行われている。その対価は明確に金銭的なものだし、なんなら、その接待費は交際費なる名目で経費として社会的に認められたりする。そういうことがよくて、なぜ、特に体の関係を介さないパパ活は、キモいとか言われたり、なんかコソッとやるものとされているのか。

コロナ禍で、いやそうでなくても、近年の若者を取り巻く環境はきびしいものがあります。そんな彼女らを、お金のあるおじさんが、デートとかちょっとしたものを見返りとして、援助することが、いわゆるパパ活とされているなら、むしろ倫理的ではないか、という主張もできそうですよね。それを、そうでないと断言し押し付けるほうが、倫理的でないような気もします。

道徳が人間を自由にする?

最初のころにお話した倫理的思考の義務説にもとづいて考えてみると、どうなのでしょうか。

といっても、「人間は義務として、たとえ体の関係を介していなくても、パパ活なるものをしてはならない」という説明はしませんん。そもそも、そういう義務があるのかどうか、あいまいですよね。

義務説の根底には、「道徳に自ら従うことは、人間に自由をもたらす」という考えがあります

「道徳に従ったら自由?????」と思われる人も多いでしょう。

たとえば、

暑いから服を脱ぐ。寒いから服を着る。これらは、自然現象に「縛られた」、不自由な行いといえます。怒ったから、みんながびっくりするような大きな声を出す。楽しいと思ったから、場違いな場で笑う。これも、自分の理性とは離れてコントロールできない、いっときの感情に「縛れらた」、不自由な行いと、義務説では考えます。

しかし、

電車でおばあさんが乗車してくるのを見たら、何も考えずに席を譲る。これは、自分が理性的に道徳だと思ったこと、それのみに従うものです。自分の理性的な考えだけに従っている、他の何者の考えにでも、自然現象にでも、いっときの感情にでもない。こうした行いが、本当の自由な行いなのではないか、と、義務説では考えるのです。

義務説の考えはすごく堅苦しい印象をわれわれに与えますが、その考えは、理性を持つ生き物としての人間にとっての、ほんとうの自由とは何か、ということへの考えから構築されてきたものなのですね。

そう考えると、

何かしらの対価を求める「プラトニックな(?)パパ活」は、接待と比べて……はわかりませんが、その構造は似ているといえます。ささやかなこと(癒やしとか)であっても対価を求める行動は、その対価に縛られている不自由な行いなのではないか。

ほんとうの人間らしい自由というのは、その女性に会うことなく、見返りなどまったく期待しないで、例えばお金だけ振り込んであげるとか、そういうことから生まれるのではないか、と考えられたりするわけです。

義務説=道徳的義務に従うことがほんとうの自由

もっとも、援助される側の女性が、それじゃ寂しい、ということもあるかもしれませんが……そういう場合、パパ活とはまた別の人間関係が構築できるのではないか、という気もしますね。いずれにせよ、上の考えは、個別的な事例を脇に置いて(そこがやや乱暴なところですが)、かなり単純化された一般例を、あくまで義務説的に考えてみた、ということです。これが正解、というものでは、まったくありません。とはいえ、こういったことを、一人ひとりが、自分の頭の中で考えることが大事なのだと思うのですが、みなさんはどのように考えるでしょうか。

人間を自由にするのは、ほんとうに道徳だけなのか

とはいっても、義務説の、こうした考えには、ピンとこない人がいるはずです。

そういうことであれば、例えば、人を守るために身を差し出してナイフで刺されて死んでしまうような人の最期は自由だったのか。そうだとしても、それには意味があるのか。そんなことを考える人もいるのではないでしょうか。

それに、積極的に道徳的な行いをする、そんな人には、自由なだけでなく、幸福になってほしい。そう考える人も多いでしょう。

もっとも、義務説を厳密に当てはめて考えると、幸福を求めることは、行いの対価ですから、それを求めている人は自由でなくなる、となってしまいますが……

ここで、人間以外の何かが、人間を自由にする役割をもつべきだ、という考えも生まれてくるでしょう。

それは、かつてなら(いや、いまでも)「神」だったのかもしれませんが、21世紀のいま、それで救われる人がそれほど多いとは言えないでしょう。

国家が、道徳的な人の自由を守る役割を果たすという考えには、なるほど、という人もいるでしょう。しかも、国家がそうすることによって、道徳的に生きる人の幸福を保証することもできます。倫理的・道徳的な行いに対し、国が何らかの補助を与えたりすることで、人による妨げなく正しいことをする自由を、守ることができるというわけです。

もっとも、

人間が100%義務に従おうとしているのか、そうでないのか、なかなかわかるものではありません。義務に従うことが大事という気持ちと、そうした自分を称えてほしいという気持ち、この2つの気持ちがゴチャゴチャになって、道徳的行動をする人もいる、というか、そういう人のほうが多いような気もします。

そう考えると、国家が道徳的な人や行いを守る、というのも難しいような気もします。

さらに、

義務説で求められているのは、あくまで個人の内面の善さ、自由、幸福です。それを、地位や金銭、などという形で守るというのは、そもそも義務説を発展させたものと言えるのか、という考えもあるでしょう。

そうなると結局、道徳的な人を守ろうとする国家の行いは、表面上だけ道徳的な行いを誘導することになるため、義務説と比べられがちなもう1つの考えである結果説と、変わらないものになってしまうのではないか。そういうふうにも考えることができるようにも思えます。

国家が道徳的行動を奨励=結果説倫理と大差なし?

そもそも、義務説では、なぜ個人の内面が重視されるのでしょうか。そもそも道徳というのは「一人ひとり」の心のなかで違うものであるようにも思いますよね。そのあたりのことを、次回の文章で考えていきたいと思います。

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