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「知らないことには何もできない」でいい?倫理的思考とは(2)共感説

共感説にもとづく倫理的思考の大きな力

前回は、倫理的思考の枠組みとして、結果説義務説のお話をしました。

どんな不純な動機であっても、結果的におばあさんに席を譲れれば、それでいいよね、というのが結果説。

一方、おばあさんには必ず席を譲るという義務を果たさなければ倫理的とは言えない、というのが義務説。

その大まかな比較、一長一短は前回お話したので、まだ読んでない方は読んでいただければと思います(また、おいおい掘り下げます)。

さて、

他にも倫理的思考の枠組みはあります。

今回は共感説、つまり共感にもとづく倫理的思考を取り上げます。

おばあさん、足腰つらそう。だから代わってあげたい。私のおばあさんもそうだった。そんな考えで、席を譲る。……これはおばあさんの辛さに共感したから、と言えます。

災害や犯罪の被害者をみて「かわいそう」、戦争の惨状を見て「ひどい」、だからそれを正すべきだ、こうした考えもまた、共感説にもとづく考えと言えます。

共感説にもとづく思考には、社会を動かす大きな力があります

みんなの共感を得るようなことやもの、たとえば、民主主義的制度のようなものから、便利なスマホのようなものまで、そういうものは、「それ分かる、共感する!」というみんなの感情に後押しされて、大きく広まることが容易になります。

ひいては、人類社会全体の大きな進歩、あるいは進化につながるでしょう。

SNSの「いいね」ボタンも、共感を引き出す装置です。「いいね」が押された考え、アイディア、商品、コンテンツなどは、SNSでの拡散が期待できます。実際われわれは、それによって広まった多くのものを見てきました。

「いいね」というのは共感の表現です。共感が人々を良い方向、つまり倫理的方向に導きます。

またそれだけでなく、人類全体の進化にもつながりやすいのが、結果説・義務説よりも良いところ、ともいえます。

共感説と「プロパガンダ」

ただし共感説はあくまで「感情」をもとに考えるものです。そういった意味で、共感説による思考、といいましたが、そうしたものは往々にして理性を欠いたもの、単純で多角的視野に欠けたものになりがちであることに注意しなければなりません。

いま、ロシアのウクライナ侵攻により多くの犠牲者が生まれています。だから戦争を止めなければならない。もちろん、結果説や義務説から考えてもそうなるのですが、ウクライナの人たちに対する共感から、そう考えることもあるでしょうし、そのほうが、他の思考法よりも、強く戦争を止めたいという感情につながるかもしれません。

しかし、

たとえば中東のイエメンという国では、ここ7年の内戦で37万人もの人が亡くなったとされています。戦闘による死者よりも、飢えや感染症による死者のほうが多いとされているようです。内戦による無政府状態が、こうした悲惨な状況を呼び起こしています。

(ウクライナによる戦争による小麦供給のひっ迫は、そのイエメンの飢餓をさらに加速させるのではないか、というおそれも出てきているようで、心配です)

しかし、そもそもイエメンのことを知らないひとは、共感しようがありません。ウクライナと同じように悲惨な状況にあるのに、考えるきっかけすらないのです。こうした国際社会の「無関心」が、イエメン内戦の長期化につながっていると言われたりしています。

(イエメンは砂漠の多い国で農業も発展しておらず、中東ですが原油生産も少ないです。一方、ウクライナと、侵攻したロシアは小麦や原油といった、非常に重要な食糧や資源の大生産国です。そのため、意図しなくても、情報は偏ります)

「知らない」を「知らせない」、あるいは「知らせたいことだけを、意図的に知らせる」、そうした伝達方法が「プロパガンダ」の本質です。

だれか(往々にして為政者ですが)にとって都合の悪いこと(例:日本が戦争で負けている)ことは知らせず、都合のいいことだけを強調して伝える(例:戦争の大勢に関係ない小さな勝利を、決定的な大勝利のように伝える)ようにするわけです。

こういうことは、自由と民主を旗印にしてきたアメリカの統治者もまた、してきたことです。それに対抗してマス・メディアはアメリカのプロパガンダの嘘や誤りを暴こうとしてきましたが、そうした報道のなかにもプロパガンダのような手法が往々にして混じっていたことも事実です。

(とはいえ、見てきたものを見たままに報道するのも、味気のないものになってしまいます。「見てきて、こう感じた」というものがジャーナリズムには必要な気もします。)

ともかく、ロシアの人たちの多くは、当局によって、ウクライナの惨状を「知らされない」立場に置かれ、かつ、当局が「知らせたいこと」だけを、「知らせたいような」情報にしか接することができないようになっています。日本人も80年前くらいはそうだったのです。そうしたロシアの人たちへの共感も忘れないようにしたいところです。

共感と無関心

ともあれ、

共感は倫理的行動を生むだけでなく、人類を進歩させる力が強い力があります。その点、結果説や義務説よりも、強い力をもっているといえます。

しかしながら、

あくまで感情にもとづくものであるため、それが間違った使われ方をしたり、大きな力によって誤った共感をするよう仕向けられる危険性もあります。

そして、

イエメンのことのように、そもそも関心のないこと、情報のないことには、共感すらできず、それらについての倫理的思考がまったくできなくなります。

難しいことですかもしれませんが、こうした罠(わな)から逃れるためには、共感するための機会を増やす、もう少しいうと、無関心をできるだけ取り払う姿勢が重要だといえるでしょう。

(もちろん、世界の悲惨な状況に接するたび、共感しすぎて自分の心がぽきっと折れてしまいそうになる人もいるでしょう(はっきりいって、自分もそうです)。そういう人が、例えばいまのウクライナ情勢を伝えるワイドショーを毎日何時間も見続けるのは、やめたほうがいいかもしれません。)

しかし、継続的に、情報を知る、見聞きすることは大事です。私は、ウクライナについては、いまは主に新聞でチェックし、もっと知りたいことを映像で見るように、なるべく心がけています。

ネットやSNSでは、自分の知りたい、共感したい情報にしか接することができません。そういうアルゴリズムにもとづいて、一人ひとりの感情にオーダーメイドされたニュースがスマホなどに表示されがちだからです。

(それをできるだけ取り払おうと努力しているネットプラットフォームもありますが)

……なんかメディア論になってしまいましたが、共感論の暴走や逸走を起こしがちなネットメディアから、物理的、あるいは心理的に距離を置くことも、また必要なのだろうと思います。

ともかく、共感説にもとづく倫理的思考もまた重要であり、その力の大きさも知っておきたいところです。そして「無関心は共感説の敵」ということもまた、頭に入れておきたいところです。

次回、また他の倫理的思考についてお話します。

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