「栄養学」が「時代」にアップデートしていない
「自分を信じれば良いのだ」と言う言葉は耳障りが良い。
しかし、問題がある。自分が「今、信じている物(知識や考え方)」って、いつ自分の中に滑り込んできたのだろうか?
僕を通り過ぎていった「物:知識」たち
1970年代、僕が10歳の頃、父母の世代の教えは、『どっさり食べて好き嫌いをしない』である。そもそも貧しかったから皆痩せておったのである(笑)。「食」が商品になる前の時代である。
毎日作られる食事は、爺ちゃん婆ちゃんのうーんと「昔の世代からの記憶=食のエビデンス」を持っていた。と「地域の食物連鎖の一端」であった。
ザイゴ(田舎)の農家の人が売りに来た野菜と町内に一つあった肉屋さんと魚屋さんで買ってきた材料を作った料理を伝統的な調理方法で作ったものであった。菓子も駄菓子屋で買うものや和菓子屋で作られたものであった。酒の様な嗜好品も一升瓶で量り売りであった。ビールは貴重品であったようだ(僕は小さかった)。食事は家庭で作られていた。惣菜屋さんはようやく出来始めていたが、コンペティター(競争相手)は家庭で手間ひまかけたものであったから「手を抜いたもの」は売れはしなかった。
1980年代、東京に行き余りに沢山の美味しいもが買えることにびっくりした。3年間の浪人生活で、ビールの味を覚えたあのもこの時代である。牛丼の旨さにはノックアウトされた。それぞれのお店で調理されていた時代である。フライドチキンを1ピース買って醤油かけてご飯を食べたものである。食事のモットーは「好きなものをどっさり食べる」と読み替えられた。
1990年、30歳の頃糖尿病と診断され「栄養学」を学んだ。4訂食品成分表の時代である。3大栄養素という「大昔の発見」を軸にする飢餓に対しての栄養学であった。とにかく食べるものがない時代で、アメリカ以外の国々の庶民は家庭で食事を作っていた時代に確立した栄養学である。
僕の知識はコロコロ変わった。30歳の頃は「脂質が悪玉」で油を取らないことが重要だった。
やがて糖質制限を知って、血糖値自己測定とともに糖尿病に向き合っていく。しかし、これまた大騒ぎが起こるのである。
今、私達は「何を食べればいのかわからない病」に侵されている。
少し前からyoutubeを見るとでてくるCM である。このCMは恐ろしいCMである。偉そうな方が、「適正糖質量」というものがあると言っているのだ。それだけを言って、その後で商品を映すのである。「お前たち馬鹿だから、僕の言うことをただ覚えればいいのだよと言っている。」
栄養学という「皿の上の栄養素」を数える学問が、統計学の嘘(食事調査は常に一つの値での比較しかできない)と結びついた上で商売人の道具となってしまったのである。
グリコといえばみな知っている「お菓子のメーカー」である。かつて「健康にナルナル食品」はあまり聞いたことのないメーカーばかりであった。 しかし、今やビッグネームが続々参入中である。
というよりもトクホやサプリに注目すれば参入していないほうが少ない。同じ様な商品が「ちょいと魔法の粉を振りかけて金ピカの太鼓判押してあれば」割高でありながら売れるのだ。中世の御札と一緒で、効果がないと気がついたときには皆手遅れなのである。
企業活動は悪いことではない。本質的な悪党は「専門家」である。企業はアドバイスしてくれる専門家にカネを払う。同じ様に市民もそれを信じるのだ。しかし、みんな同じ目にあって死ぬ。気が付かない専門家は馬鹿である。
このお話のお友達である。
世の中の人が「何を食べたら良いのかわからない症候群」に苦しんでいるのがよく分かる。
何を食べれば良いのか
最大の問題は、「食事から栄養素だけを吸収する」と言う思い込みである。その思い込みのもとには、身体の内側には「バイキンはいない」と言う「純粋主義的生命観」が横たわっている。
食べ物は、「栄養素の単位」まで消化されてバラバラになって、吸収されて身体の内側で全て組み立てられるという思い込みが現在の「栄養素さえ入っていればいい」という、ドッグフードみたいな食事を生んでいるのだ。
とにかく食品は良い商売になる。工業的プロセスで作られた物であっても、『満腹』と言うアウトカムを満たせば売れる時代なのだ。
食事と健康の関係については様々な議論がある。
基本的には、欠乏症か中毒症、かのどちらかである。中毒症の位置変種となるのかもしれないが、「悪者探し」も盛んである。
1)欠乏症
「必須栄養素」の発見は1960年代のオーソモレキュラーを生んだ。それ自身は問題ではない。しかし、未だにその時の栄光が忘れられないことが問題である。「病因の無い症状だけの病」に関しても、「ビタミン○△」が足りないせいだと大にぎやかである。しかし、これだかトクホやサプリで粉だらけになりながら、特効薬がみつかってはいない(笑)。
2)中毒症
この50年は、化学肥料や農薬、遺伝子組換え作物が大きく食事の生産過程を変えた。そこに問題の根源があると言う方々である。これはなかなか説得力がある。「自然食」をすることで問題が快方に向かっている場合もある。テクノロジーへの不信感があふれておる(笑)。自然食品の売上に寄与しておる。たしかに遺伝子組み換えは恐ろしい。
しかし、遺伝子組み換えは植物の「日常的な得意技」である。除草剤を撒いても耐性を持った雑草がすぐにやってくる。
科学は質の悪い自然の模倣品である。
地球が生まれてから「幾度の氷河期や生命の爆発期を超えてきた自然」がおこなっている壮大な実験に比べれば科学など詐欺師の金儲けである。なにせ生命は命がけである
3)悪者探し
グルテンフリー、最終糖化物質、体に悪い油、タンパク質のとりすぎ、いずれも本(クリニックの宣伝である健康啓蒙書)になっていたりする。これもわかりやすく、勉強好きな方々には嬉しいものであろう。いずれも、現象の結果と原因をゴッチャにしている。
グルテンが腸のタイトジャンクションを破って腸の中に入り込んでいくというのは、身体のタイトジャンクションが別な原因で破れて、そこにグルテンが見られるというのでも説明がつく。最終糖化物資も同じ、原因なのか結果なのかということが逆に向いている。脳の問題にみられる「アミロイドβ」や「レビ−小体」についても同じである。
医学の基本は苦しんでいる人とともに生きることである。
患者を切り刻んで分析することではない。多くの患者に同じ様な現象が見えたらすぐにそれが原因だと論じる。しかし、本当の原因はその人の生活のうちにあるのだから、共に暮らして生活を共有している家族にしか解決は見つけられない。
検査値を見て5分で「よく効く薬」を処方する。いつか自分も同じ道をたどると思えないのだろうか。医学部の教科書にはヒトは皆同じ道を通って死ぬということが書かれていないんだろう。頭のよろしいことで。大笑いである。
「栄養学」が時代にアップデートしていない
1960年代の栄養学は、身体の内側でいかなる代謝が行われているかも理解されていなかった。食後、「タンパク質ー脂質ー炭水化物」は瞬時に他の要素へと変化する。大事なのは、皿の上の栄養素ではなく、身体の内側の代謝系なのである。
3大栄養素と言う言葉自身に問題がある。「タンパク質ー脂質ー炭水化物」と言う「食事の要素」の分類方法が余りに「古い(現実を正しく分析できない)」のである。あたかも世界の真理のように語られる。
タンパク質といえば動物の筋組織、脂質といえば脂肪組織を指している。
しかし、大事なタンパク質は個々の細胞や組織で使われる「生体タンパク」である。筋組織の「それ」は細胞において使われている「生体タンパク(何らかの役割を持ったもの)」の材料のお財布である。脂質も同じ、毎日5〜20%が溶かされて再構築されている。重要なのは細胞の内外の代謝である。
代謝においては、「生体タンパク・脂質(複雑な立体構造を持ち細胞の内外で機能している)」が必要であるのだが、ドッグフードのような食事ではそれは取れないのだ。工場で作られた粉やタンクに大腸菌に作らせた単純な化合物では生命は作られない。
長い食物連鎖という道のりの内にマイクロバイオームが作りながら世界に与えてくれる宝物を大事に使った食事からしか取ることは出来ない。
野菜にタンパク質がないと言われるが、実際には細胞である限り脂質の膜に埋め込まれたタンパク質(受容体)が存在するし樹液には多種のホルモンも流れている。
そして多くの「タンパク・脂質」を私達は肉以外の「食事(免疫系の貪食)」からとっているのである。
その意味では、植物も細胞レベルでは食事をしているのである。
消化と言うプロセスで、必須栄養素以外のものは分子のレベルまで分解しているという「潔癖主義生命観」も大きな問題のひとつなのである。
昨今のDNA解析は身体から漏れる液体(よだれ、胃液、胆汁酸、)の多くの免疫系細胞(白血球と総称される)が含まれている事を解明している。
免疫系は、体外のマイクロバイオームを貪食して体内に迎え入れると考えるが良い。免疫は身体を守る兵隊ではない。身体は常に変わっていく、ミクロレベルで何を基準に「私」を判断するというのだろうか。
調理のプロセスに問題があるということ
食事を考えるヒトの誰も言わないことがある。「食材が命を失ってから」、どの様な加工工程を通ってきたのかということである。「乾燥・濃縮・抽出」工程を通ることで食材は「生体活性を維持したタンパク・脂質」を失われるのだ。工業的工程は食べ物さんの持っている「生命」を捨て去ってしまうのだ。売られている食事は、栄養素の残骸しか残っていない。
濃縮還元の100%果汁のジュースは1/5に煮詰めて、高く売れる土地にタンカーで運び水で薄める。この工程の途中で果物の持っている「生命(水の中に浮き、立体構造を維持したタンパク・脂質)」は単なる「栄養素(生命のミイラ)」になっているのだ。眼前でプレスしたジュースと飲み比べればいい。「身土不二=地産地消」とは、『「そう」でなくなった』から言われるようになったのだ。
厨房に来てからも同じ問題は残る。高温・高圧での調理は同じ様に食べ物さんを残骸にする。
かつて、「家庭というシェルター」で『近くで取れた旬の素材から伝統的な手順(プロセス)で料理が作られていた時代』があった。
伝統的調理方法を伝達する「社会=家族の構造」はサラリーマンという階級の確立と、女性の開放という「いいこと」と引き換えに見事に消え去ったのである。
そして、「社会進出」という同時に「セクハラ・パワハラ・モラハラ」に苦しむことになる。家庭の中に閉じられていた欲望が一気に家庭の外に開放されたのである。
家庭とは「シェルター」でありながら「欲望を閉じ込める檻」でもあった。
貪欲を戒め死を意識して共に生きる場であったのだ。
しかし、ヒトは堕ち続ける、しかしどこまでも落ちることは出来ない。
希望はあるだろうか?
一番の問題は、みな生きるのに忙しすぎることである。そのために、調理という「他人」に変わってもらうことの出来ない事を外注化しなければなくなったのである。
商売人は利を求めて当たり前、倫理や良心を求めたとで無駄である。
食事を買うのは仕方がない、しかし、「食事の価値」を共有できるコミュニティが必要なのである。それは厳しい宗教的なCODEでもある。
利益など考えないで、丁寧に食事を作る昔気質のお店はまだ残っている。それぞれの立場は違えども「商品化された食事の問題」に向かい合おうとしている人達がいる。家族がアレルギーで毎日食事を作らねばならない人もいる。僕は彼らを尊敬する。
食事の環境(世界)は常に変わる。身土不二、一物全体食、いずれもかつては当たり前のことであった。しかし「食のグローバリズム」が一気に破壊したのだ。グローバリズムは悪いことではない。「フードキャピタリスト」が「その商品(食べ物)を買う人」と価値を共有しなくなったことがすべての発端である。
スティマや商品企画、レシピ情報で金を儲けようとは思わない。投げ銭程度ならば良いかもしれないが、広告の報酬は商品を売らんとする奴等のおこぼれである。鍋釜に名前を冠じて買わせるのも好ましいとは思えない。
家族の命のための祈りに金ピカの道具は必要ないのだ。
kojiさんはnoteで見つけた友人である。ラオスに住んでその土地の人の生活を生きている。素晴らしい価値を彼らは今も持ち続けている。彼らに恥ずかしくない生活を見つけることは出来るはずだ。
みなピンコロの人生の終りを迎えたいと思うのは当たり前なのだ。
弁当屋さんを始めたい
ビジネスは、どうしてもキャピタリストと生産者=消費者が存在する。「生産者を(安く)働かせて、高く消費者に売る」のが商売の姿である。それが悪いわけではない。
しかし、貪欲に利を求めることで、「商品(食事)」はおかしなものになるのだ。どこかの大金持ちのために誰が食べるのかもわからないもの作らせられるのは面白いことではない。食テロは奴隷の悲痛な叫びなのだ。自殺者が出るような工場で作られたものを食べる気にはならない。
「キャピタリスト、生産者=消費者」が共に生きることが大事である。多くの困難がある。
「厨房仕事」は「祈り」である、自分で|司〈つかさどる〉らねばならないのだ。家族のために、自分のために毎日続けるものなのである。
いたく宗教的な問題なのだ。
今日の食事は「帽子鉄板焼」で焼き肉であった。素材から調理して、肉の脂は野菜に吸わせて残すことがない。
野菜は農家の方にもらったもの、流石にお肉はどこぞの肉であるが...…
もちろん、ケンタも好きだし牛丼も素敵だ。けどね、「おうちご飯」には素晴らしいものがたくさん詰まっている。残念ながら、簡単には作ることが出来ない。
糖尿病で良かったと思う。
どうせいつかは死に追いつかれるのだ。
僕は自分のダンスを踊る。
みんな、一緒に踊れるといいね。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。