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格差の方程式:ジョーカーはMCを撃った

松本人志を僕は嫌いだ。宮迫博之 も嫌いだ。島田紳助の辺りから本格的に嫌い出した。お笑いの番組の審査員のところに座っている連中も嫌いだ。芸を披露する芸人に比べて給料が高すぎる上に、自分自身は何も面白い事をしていない。体張って笑いを作ろうとしている芸人を「いじって」自分に能力があるかのごとくしている。会社の営業マンを顎で使う『「伝説の営業マン」だった部長』のようである。

テレビの出演者の給料って、私達が商品を買うことで支払っている代金から出ている。その金を、テレビ局を独占している連中が好きなように分け合っているのである。

黙ってみてCMに出てくる商品買う私達が悪い。結局はそこに落ち着く。

娯楽が大衆のものであった。

寄席や劇場で皆が「木戸銭=入場料」を払って、互いの立場を共感してともに生きていた時代の「芸能」のあり方とは全く異なったものと成った。

今や、スポンサーの金(僕らが商品を買った金の一部)で、「商品が売れるようなパフォーマンス」を芸人は演じて、メディアが流す。観客は「無料」のテレビをつけて「誰かをいじめ笑いもの」にすることでうさ晴らしとる。

実際には何も無料ではない。「働いて商品を作っている人の給料に回すべき金」をもっと売れるように「タレント、MC」に支払う。もっと大金はメディアや代理店が受け取る。僕らが貧乏なのはコイツラが金持ちになるために給料を減らされているからなのだ。

何で労働者の給料が上がらないかと言ったら、経営者がそうしないからだ。

会社でパワハラ・セクハラ、學校でいじめ、家庭でDV・ダメおやじイビリで少しずつ殺されるのだ。誰かの言いなりになることで時給を貰っている。

テレビでMCの言葉聞いて中を笑う。気を晴らしたら、明日も精神病院で、薬いただいて会社で安い時給でやりたくもない仕事させられる。少しずつ殺される。

自分で給料を決められる連中(経営者)は大威張りだ。このご時世に仕事あるだけでもありがたく思えと言われる。

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企業が個人商店や農家で狭い範囲で商売していた時代

僕が生まれた頃はそれぞれの家庭が商店で農家であった。狭い範囲で私達は互いに生きていた。その時代が良かったとは思わないが、理解しなければ今という時代もわからない。

地域で、個人商店が商品を売った「利益」は、地方で税金として集められる。税金は、必要な経費(それぞれの企業=家庭が維持されるのに必要な金額)を引いてでた利益から集まられる。

当然、「家=企業」に属することの出来ない「次男・三男とその嫁」もいる。彼らを見捨てるわけには行かない。兄弟であり、家族なのだから。そこから年金が生まれた。

集められた税金は、「商品を買ってくれた人に分配される」それが、公共事業であり、年金であった。

町内の商店はお互いの商品を買い合って、利益はそれぞれの「家族=企業」の年寄を養うために使われた。個人商店では年功序列も終身雇用も家族を見捨てないというところから見たら当たり前であった。

年金はお恵みではない、若い頃払っていた給料の還元でもない。「ともに生きていく」人の心なのだ。

グローバリズムという「獣」は一気に破壊したのだ。ほんの50年で起こったことなのだ。

「グローバリズムという獣」が見事に社会を食い散らかした。

変化はあまりに劇的で、多くの人間が豊かになったために「良いこと」の用に見える。

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僕の母の父親の実家である。タンスを作り商って弟子を養った。弟子達は農家の三男や四男という生産手段を持たない労働者である。生活を保証される。やがて暖簾分けを受けるかそのまま年取っていくが、働けなくなっていく。老後は、わずかにためた金と親父さんに季節の手当をもらう。年金は、長く共に働いた仲間のために分配されるのだ。だから、自分お属していた商店は親であり、シェルターであるのだ。同時に言うことを聞かねばならなかった。檻でもあったのだあ。

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「MCや審査員」を見たいわけではない。

しかし、お笑い番組で「審査員という専門家」が笑っているのを見るとああ、そうかこれは笑うんだなと思うのだ。恐ろしいまでの専門家依存症である。

youtubeと言うメディアに宮迫博之は追いやられたが、結局は自分たちを使っている猿回しに嫌われたからだ。とは言っても1本数百万円の腕時計とかとんでもない家賃の家とかは見せびらかしたら視聴者に嫌われて当然である。

部長間の喧嘩で会社を追い出されたと言うところだろうか(笑)。

吉本興業の内覧と僕は考えているが、実に面白かった。経営者を「親」社員を「子」になぞらえていたのだ。

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教室で誰かがふざけた時先生が笑ったら、教室の皆は笑う。

僕はそいういシーンで先生に笑われ、教室の皆に笑われ、バカにされた。いじめは先生がロックオンして教室中が一致団してその子を追いやるのだ。

沢山いじめの本を読んだが、「先生と親が主犯だ」と書いている本は少ない。まあ、この話はまた今度。

僕は、人の集団のあらゆる場面で、この問題を見ることが出来ると思う。

そして、「MC」と「回される猿」との間の格差は大きすぎる。一発屋という上に上る階段も有るが、本質的にはメディアの所有者に気に入られbなければMCにはなれない。

とは言っても、嫌われればバッサリと捨てられるのも世の常である。

まるで私たちの社会を見ているようではないか。

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バットマンは嫌いだ。

キャプテン・アメリカも、アイアンマンも、格差の上の方の連中の味方なのだ。

世界は「希少な価値」をいかに分配するかと言う「ディール(取引)」である。学校でも職場でも、皆求めるものを誰が受け取るのかという取引の場だ。そして、「社会が集積した価値」は「必要な人間」がではなく、「優秀な人間」が得る。

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「優秀な人間」が富を総取りする社会

なぜならば、優秀な人間はそのコミュニティにより大きな富をもたらせてくれるからその報酬なのだ。人はそれなりの能力に応じた報酬をもらい、社会的地位の高さは優秀な証明である。駄目な人間は優秀な人間のおこぼれで生活に必要な時給をもらえる。

テレビのお笑い番を見ればいい。優秀なMC(司会者、猿回し)が無能なお笑い芸人(猿)に芸させて居る。

企業を見ればいい、優秀な部長が少し馬鹿な課長を指導して、もう少し無能な係長を手足に使い、何もわからない営業マンを右往左往させる。

大学を見ればいい、教授は偉大な本を監修、助教授は生徒に本を買わせる、准教授は本の原稿書いておこぼれをもらう。院生は下調べしてやがて覚えが良ければ何処かの大学に就職先を紹介してもらう。

しかし、公平な「就職の機会と組織の中での公平な評価」というものがあるならばの話である。

私達は自分の気に入った人を重用する。それは「贔屓」と言われ「公平」の真反対だ。

自分の気に入った猿をいじり、侮辱して、大金を受け取る。

MCはジョーカーをバカにすることで金を得ていたのである。そしてその分け前を与えようとはしなかった。

こういう事していたら、いずれ殺される。

ジョーカー

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トリクルダウンと言う嘘

コミュニティの中では順位がしっかり決まっていて上が下にいくらおこぼれを渡すか決める。「トリクルダウン」という嘘である。経済学者は上がまず潤って、下に経済効果が生まれると真面目に行っていた。アベノミクス(MMT=現代貨幣理論)が人々を裕福にするというおとぎ話は結局は下の給料を決められる奴らの預金通帳の残高を増やしていっただけである。

ネットで自分の預金通帳の残高を見せる輩がいたが、あれって「女アサリの投げ餌」としては上手く機能するだろうが、本来一緒に働いて頑張った皆で分ければいい金だと思う。自分で社員お給料を決めれれるから

コンビニで時給を決めるのは店長だが、店員の取り分を少なくすれば少なくするほど自分の取り分が増える。

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ジョーカーという映画は素晴らしいものだった。

この映画は、「正義の味方と映画でたたえらられている連中(僕もいい人だと思っていた)」が社会の守護神である事を明確にした。

僕はジョーカーを見て「バットマン」「スーパーマン」「ガンダルフ(指輪物語)」が嫌なやつだと分かった。どうもしばらく前から「あの手の映画」を見ていると嫌な気持ちになったのだが理由がわからなかった。悪者が皆気持ち悪い。ゾンビなんてその最たるものである。

視点が金を「搾り取っている連中」の側なのだ。搾り取られている連中は徹底的に汚い化け物と描かれる。刑事モノでも、アイツラ悪い奴ら家から死んでも当たり前だよねと描かれる。

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社会の問題であるはずなのに、そこは隠されたままなのである。

彼ら自身が負け組だから仕方ないよねと自己責任化される。実際には、富を集中させて、格差の上の方で分配すた時に分配を受けれないかたがたなのだ。

そしてその社会自身が格差を固定化して、貧困な者を作り出すことで富めるものを裕福にしている。

かく言う僕も家を持っている。一生アパートで家賃を払い続ける人から見れば格差の上の側だ。ここが難しいのだ。どの2点をとっても格差は検出できるのだ。だから共に戦う事が出来ない。

上の連中がヒョイと糸を投げ下ろして貰えれば、天国に連れて行ってもらえる。一発屋とか、宝くじがあたったら何の苦労も亡くなる。金で全てガディールできるよの中なのだ。

弱者が団結するにはとんでもない幸運が必要なのだ。

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ジョーカーに関してのnoteは結構あるけど、このお話は楽しかった。


僕も書いておる。がオリンピックネタの一部である。まあ、格差ネタでは有るが。

そして結論であるが、こうなってしまった社会はテロで滅びるほかない。上が考え方を変えねばならないが、それは人の社会では一度もなかった。この数十年の変化は驚くっべきテクノロジーの開発っで、新たな貧困の格差を生んだのだ。

多くの遺跡文明が示すように、大きく肥大した社会はテロで失われるのである。「グローバリズムの獣」が食い散らかした世界中の建物群は遺跡となる。

この格差のシステムから利益を得ている連中もシステム自身が崩壊するのだから数世代で消える。

最後は、ゾンビが勝つのである。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。