生命の庭の物語:芽生えの季節(2)家族の思い出
庭を歩いている。毎日変わる姿は素晴らしい。四季折々の姿を見せてくれる。春は生命の力を感じさせてくれる。昨日まで枯れ木のように見えていたのに、もう緑でいっぱいだ。
このお話の続きです。
月桂樹は恐ろしく伸びるのが早い。この季節に花がつく気がついてみれば、庭のいたるところに実生がいる。面白い。
こんな小さな庭でも生命で一杯になる。朝夕とパソコンに疲れた時は歩く。一日1時間は歩く。歩くのに邪魔になる枝を幹に巻き、時には摘んでゴメンねとつぶやくが、木は何もなかったように伸びていく。昨日までの姿が思い出せないほどに変わる。まるで家族の姿が、その時時の出来事に変わるように変わる。
身の丈ほどあった榊だが、10年近く前にカイガラムシでほぼだめになった。だめになった幹を切った。少し残っていた枝が伸びてきたので、隣の月桂樹には少し光を分けてもらうことにした。下の枝を切られても、月桂樹は何事もなかったように高く伸び続けていく。
木というのは一本の生命ではなく、根から受け入れられる「水とマイクロバイオーム」がそのコロニー(根や幹)の内側の海を満たし、「葉」が生まれてくる。葉が生命の単位なのだ。人の細胞が生命の単位であるように。
葉は、根が受け取り、幹に満たした「水とマイクロバイオームの代謝物」を使い、身体を作り出す。そして、光合成を行い内なる海にブドウ糖(デンプン)を満たし、お日様の力を受け止めることの出来ない幹や根に生きるチカラを与える。
2017年当時、「土と内臓」と言う本を読んだ。実に示唆に富んだ本で、どんな食事に向かえばいいかを悩んで僕にとっては素晴らしい導きであった。
植物と動物が非常に近い「律」を持つと気が付かせてくれた。
この本のおかげで、どんなふうに庭に手を入れていくかを考えさせてくれた。庭を手入れすることと食事を作ることにとても深い関係があるということにも気がついた。
樹木は、一つの家庭のようなものだと思う。葉が一人ひとりで、共に生きて、助け合う。そして、隣の木々も絡み合いながら大きく枝をはる。
時に枝同士が光を奪い合うことも有るだろう、水の吸いが悪くなったら枯れなければならない枝も有るだろう。
一葉の葉は内なる海に様々な代謝物を流し、互いの存在を知る。あたかも根は、もっと力がほしいと土中のマイクロバイオームを吸い上げるかのごとくである。
人の細胞も同じである。家族も、小さなコミュニティも、国家や宗教という人のつながりも同じ「律」を持つ。
家ができて3−4年目だろう。隣は父を施設に入れて庭をおじに売ろうと画策した男、すでに縁切り済み。
根は食物連鎖の一旦であると同時に、生命の始まるスタート時点でもあるのだ。そして、葉は季節とともに枯れて落ちる。あたかも家族がそれぞれに死んで行くのと同じなのだ。しかし、死んだところで消えるわけではない。
マイクロバイオームに受け取られ、やがて新たな葉の一部となるのだ。「輪廻転生=食物連鎖」という言葉の意味が分かったような気がした。
アケビは庭中に蔦を伸ばしていたることろから新芽を出す。数年前には切ろうと思っていたのだが。父がなくなる半年くらい前に「このアケビは姉(随分昔になくなって、子供さんとも会うことはない)が新築祝いにくれたものだ」という。それを聞いては切る訳には行かない(笑)。
アケビの下の方に紫陽花が新芽を出す。少しお日様を分けてあげるように下枝は切る。
百日紅の葉はまだまだ出ない。年取って色々なことを覚えていなくなった母はこの百日紅を見ては、枯れたのかねえといった。7月くらいに一斉に葉が出て花がつく。毎年それを見ては「枯れていなかった、マサヤ良かったねえ」と言ったものである。この蔦が絡まるようになったのは、母が亡くなったあとだ。春なのに葉が出ない百日紅を、空の高いところでかわいそうに思ったのだろうか。
根は、身体の内側を満たしている海を外に流し、マイクロバイオームたちとともに生きるのだ。庭自身がちとつのコミュニティとして成り立っていることをし得てくれる。「ガイア」と言う考え方は、直感的にそれを表している、擬人化が激しすぎて好きではないが。
この動画は、友人が僕の記事のコメントで教えてくれた。木というコロニーを「生命の主体」のように捉えるのはもう一ヒネリほしいところである。
植物に意識はあるかという問題を考えることがある。
「一人の人」と対応するように「一本の木」としての意識は無いと感じている。というか人には「意識」があるのか(物理的な脳の一部に部位として存在するのか)ということが先に問題となる。
細胞(葉や幹や根を構成する)には(意識と呼びたい取捨選択をする仕組み)あってもおかしくはない。「意識という一言」で説明できる「多種の生化学物質による反射反応系」はある。もちろん「動物の細胞」にもある。マイクロバイオームから犬猫クジラ、カラスに雀に至るまでである。もちろんミミズやカナヘビ、シロアリ.........にもあるのだ。
そうすると今度は、「動物の意識」=「細胞のコロニーの意識」が有るのかと言う問題になる(サンゴ礁には意識があるか問題)。
これは奥が深い。「脳の物理的研究」は大変進んだ。何を見るとどの部分が電気的興奮を生じるかとか、ドパーミンが幸福感を生むとか、抗うつ剤がどう効くかとか、物理的刺激と脳自身の「反応マップ」は毎日の大様に精密になる。昨今では脳に効く薬は需要が多いから研究費も多く、製薬会社は大儲けである。
では、悪人を善人に変える薬はできたか?脳のどこの部分に心はあるのか?
(犯罪と定義される)性的指向(幼児性愛など)を変える薬は出来たか(類似のものは有るが、身体のホルモンバランスを壊すから副作用がすごい)?
僕を納得させてくれる答えを「インチキ叔父さん」たちは見つけていない。
答えがないところを探しているのだと思う。
山葡萄ではないかと思うのだが、ここ一杯に蔦をからませる。春になると枯れたかと思っていた蔦から一気に芽が出てくる。気をつけていないと絡まった樹の葉を隠してからしてしまう。地面を這って、根を出していくのには驚いてしまう。押入れの下から家の中に入り込んできて驚いたことが有る。居間や雨戸の戸袋にに蔦が上がってくるのだ。
このボケの木は50mくらい離れた家の庭に有るものと同じようだ。こんなに離れているのによく来たものだ。10年くらい前に庭の隅に生えているのを母が見つけて喜んでいた。確かに、この赤い花は目に嬉しい。もう少しさいたら仏壇に飾り墓に持っていく。
このバラは、随分昔に母がどこからか枝を持ってきてさしたバラだ。大きくなってきたのでビニールハウス材で上に伸びるように組んだが外に出てき始めた。今年はアーチを作ることにした。
蕗の芽が出てきた。庭の反対側からここまでどうやって来たのだろうか。これから、沢山生えてきてくれるのだろうか?
庭の隅に蕗が群生している。野生の蕗なので痩せている。この蕗をとても喜んで母は摘んで持ってきた。茹でて筋をとって煮付ける。歯が2本しかない母には辛かった。なくなる3年くらい前からディバスという薬でまっすぐ歩けなくなっった母がこの蕗の手前で転んで腕の骨を折った。この蕗を見ると思い出す。今年も柔らかく茹でて食べる。
ゼンマイのようなのだが、あっという間に伸びてしまう。父母は山菜を植えたがっていたが、上手く行かなかった。量も少ないから伸びるに任せている。そのうち食べることが出来るようになるだろうか。母の友人の甥の方が、母が亡くなっても毎年持ってきてくれる。嬉しいものだ。
実生の紅葉が葉をつけてくる。この庭には大きな紅葉が一本あった。その木の子どもたちは同じ様に色が付き、そうでない紅葉は裏の家からの実生だと思う。紅葉らしくないのだ、楓かもしれない(笑)。僕は見分け方も知らない。
池の傍には芭蕉が生えていた。菖蒲もたくさん生えていて、根が池に入っていた。水が漏れるようだったので、根こそぎ少し移したら無くなってしまった。今年、生えてきてくれた。たしかこの庭が出来たとき(50年前)からの芭蕉だ。嬉しいものだ。しかし、この葉は毎年新しくなる。
雪折した松は、十分水が上がらないようで、枝が枯れ始めている。どうなるか見ていることにする。水が上がらなくなってしまったら、枯れるだろうが、その場所には他の木が育つだろう。庭のこの2本の松は、僕が小さい頃は3本あった。ときとともに姿が変わるだろうが、生命は続いていくのだ。
明日はどんな姿を見せてくれるだろうか。
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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。