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父と暮らす:認知症は幸せなのかもしれない。「記憶が失われること」と「心が狂うこと」とは違う。自分を知っている人がいなくなるという孤独。心を狂わせない食事。

年取って辛いことはなんだと聞かれた老人が「若い頃を覚えていることだ」と映画「ストレイト・ストーリー」で主人公が応える。

なぜ、老人にとって記憶が失われることが悪いことなのだろうか?

僕は悪いことではないと思う。もう十分頑張ったのだ。静かに暮らすことがふさわしいじゃないか。

人が覚えている必要のないこと(覚えていると都合の悪いこと)を忘れるのは当たり前の反応なのだと考えるほうが良い。黒歴史は忘れるに限る。毎日繰り返される日常も記憶には残らない。妻が父の記憶の衰えを指摘した時、僕は「一週間目の夕食の献立」を覚えているか聞いた。

記憶力が良すぎるのは疾患とみなされることさえも有る。多くの人は思春期以前の事を覚えていない。それはおかしいとは思わないのに、老人が壮年期のことを覚えていないことを病のように言うのは興味深い。

多くの荒波を超え、苦しんで生きてきたのだ、妻や子供との確執もあり仕事も辛かっただろう。やっとたどり着いた平穏だ。無論、理解できない言動は困るが、記憶を失うことは少し違う様に思える。

認知症と言われる振る舞いは家族にとっては辛い

親が介護する自分を子供と認識できなくなり、わけのわからない事を言う。そんな姿は、かつて肉親だった残骸に見えるだろう。家に住みながら「自分の家に帰りたい」と外をさすらう。会話も噛み合わんずに何を言っているのか訳がわからない。

施設に入ってもらい、薬でおとなしくしてもらうことを選択するのは仕方がないことだ。もうそうなってしまったのだから仕方がない。医師の言うことを聞いていたら、施設に入って孤独に死ぬのだ。統計的にはそうなる事になっている。

しかし、十分にこれから起こることを学び、予想して、ピンピンコロリの人生の終りを迎えたい。

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2000年を少し過ぎた頃、僕は父の実家の端っこを事務所にしていた。泊りがけでよく仕事をした。奥には父の義理姉(僕にとっては叔母さん:長男の嫁で、長男が亡くなったあとで次男と結婚して女将さんになった)がいた。居住部分から夜中に歩いてきて、家に帰りたいと話すのである。息子は遅くまで帰らなくて、嫁とは別居状態で自分一人しかいない。彼女が帰りたいのはGPS上の座標ではなく、自分を必要としていたわってくれる家族のいる空間なのだと気がついた。もう店は廃業したと同じであった。地域の自営企業・専業農家は既に消えて残っているのは僅かな商店や農家だけだった。

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時間が有る時は、叔母さんの話を聞いた。最初の夫と初めて映画に行った時の話。昔のこの街の賑わい。彼女は覚えていた。やがて僕はここから事務所を移した。時折、叔母さんはスリッパで町内を歩いていたと聞く。やがて叔母さんは自分で起き上がれなくなり、息子(僕の従兄弟:長男の子供)が毎日一緒にいるようになり、静かに亡くなった。夫(叔父さん)は叔母さんの後を追い5年後糖尿病が悪化して足を切断する前日に亡くなった。横柄で頑固な性格で母とは不仲だった。父と母が喧嘩することはまれだったが、叔父さん(父から見たら兄)を大切にする父に原因があった。僕も何度も喧嘩した(笑)。

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2016年母が亡くなったあとで父と毎日食事を一緒にとった。

一番の心配は父が自分を失わないかということだった。僕のことをわからなくなったら一緒に住むことは出来ないということは考えていた。父は最後まで毎日食事を楽しみ、庭を眺め少しだけ散歩して過ごした。

自分もそんな死に方をしたいと思いながら毎日食事を作っていた。

2020年3月8日父はなくなった。多くのことを忘れていたが、十分な楽しい思い出にあふれていた。

母が亡くなった後、一度だけ、「アイコもあと10年くらい生きていたら面白かったろうなあ」と言ったことが有る。既に父は母のことさえも覚えている必要はなかった。

体が動かなくなってきたと嘆くこともなく、今の状態が当たり前だと思っていた。

そして、「心」は狂ってなかった。ウイットに富んだ会話を楽しみ、できるだけ笑いを絶やさっずに、いつも「ありがとう」と言ってくれた。

母はいつも年取っていく自分が不安で仕方なかった。医師は幾種類もの薬を処方した。よく効く薬は不安を拭い去り、少しだけ眠リを与えた。しかし、感情の起伏が激しく、まっすぐに歩けなくなてきた。話し合いながら少しずつ薬と離れることができるように毎日一緒にいた。事務所が家だたから出来た話である。亡くなる2ヶ月前にはすっかり薬と縁が切れた。亡くなった時は静かに眠るようだった。

かつて、社会は地域に閉じられて、商店や自営農家であった。家族が共に生き、「教育・食事・介護」は3世代の循環して再生する家庭の中に維持されていた。

その時代には精神病も心によく効く薬もなかった。食事と家族のいたわりで家族は世界と向き合う他なかったのだ。そして、現実はいつも私達を苦しめ、精神病と言う心の当たり前の反応は家族を苦しめたが、共に乗り越えていた。

認知症とは行政用語なのだ(生活習慣病と同じ)

家族はいくつもの死を通り抜けていた。自分がこれから通る道を見ていた。

年取って、多くのことを忘れるのは何も病気でないこを知っていた。みな年取ればそうなっていったからだ、そして若い家族が助け生きていたのだ。「ボケ」という「記憶力が弱くなった状態」を指す言葉(愛嬌がある)があることからもわかる。もちろん年令に関係なく使われる言葉だ。「認知症」と言う行政用語(補助金を使う權利の度合いを示す)とは全く違う響きが有る。

そして、「老人の衰えていく身体」を受け入れることが出来たのだ。コミュニティを構成している個人が変わっていくプロセスであり、コミュニティ自身が新しい姿になる。

今までの役割は引き継がれ、コミュニティは新たな形で維持され、再生ー循環し継続される。やがてたどる道を学び、それに備えるのだ。自分の問題として老いる事と死ぬことが心に刻まれる。

私たちの「医療」は老人を施設や病院に隠すことで。不老不死を実現したが、「老いー死ぬこと」を学ぶ機会を失った。

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僕は小学校に入る前の写真、父の兄弟と一緒に花見に行った。社会は貧しかったが人の結びつきは強かった。親の世代は、今では、みないない。子どもたちも半分しか残っていない。残った子どもたちとも、合うこともない。

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確か20年以上前の写真。父の一番年上の姉が100歳に成った時の誕生日。兄弟姉妹皆生きていた最後の記念写真だ。父と10歳年上の兄が最後まで残った。今はもうだれもいない。(子供が2人と撮影していた僕が残っている)。父は「七人兄弟の四男」だった。一番全面でしゃがんでいるのが父。

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「病」は「社会の変化」に対応した「身体の当たり前の反応」なのだ。

医学は詳細な分析を行い、因果関係を探る。確かに分子生物学的機序は見つかるだろう。分子標的型の薬は、細胞の受容体を潰し「薬理学的ロボトミー(注)」を行う。そんなよく効く薬で介護もしやすくなるだろう。しかし、僕はまっぴらだ。心狂わないままに人生の終りを迎えたい。

既に「家族というシェルター」は望むべくもない。私達は施設で孤独に死ぬほかない。悔やむことはない。「家族というシェルター」は守ると同時に多くの苦しみを与えた。自由に生きることもままならなかった。そんな苦しみから開放されたこともまた事実なのだ。

確かに、格差と忖度のピラミッド(かつては地域=家庭、今は世界)のスケールが大きくなり、決して先を楽天的に考えることは出来ない。このことはまた後日書きましょう。

自分の心が狂わない食事を作り続けることができるだろうか?

この80年で生まれた多くの疾患は食事に由来する。老人の心を狂わせているのも同じだとは考えられないだろうか?

逆に、「食の欧米化」「運動不足」「食品加工物の混入」などというほうが納得できない。医学の研究者は、その程度のことしか言えない。

グローバリズムが労働の本質を変えてしまい、人と人とのつながりの形を破壊してしまった。それが精神に現れたのが「うつ」や「統合失調症」であり、身体に現れたのが「生活習慣病」なのだ。

私達は人間関係をプライベートと仕事に分けるが、心に対しての負担はそんな簡単に分けられない。仕事を続けなければ生活が出来ないし、上司のパワハラは限度を知らない。辞められないことを承知の上でイビられる。

かつて家庭が企業であった時は、子供をそこまでひどくはイビれなかった。パワハラにも限度があったのだ。なにせ、30年後には子供に介護してもらわなければいけなかったからだ。子供は年金だったのだ。

今はそんな事はない。部下に給料を多く与えたら自分の給料が減る。自分にできないようなことでも、無理にさせ無ければ自分がクビになる。部下に働いてもらっているから自分が生きているのだなどということは考えない。仕事は誰でもできるようにマニュアル化される。

かくして、パワハラには限度がなくなったのだ。そして「家庭という企業」であれば当たり前だった部下(妻)との性交渉も「セクハラ」になる。これは当たり前だ。そして、職場での不倫も当たり前なのである。

僕らは「のべつ幕なしセックス」をしたがる。セックスというのは身体を操るマイクロバイオームの喜びなのだ。子供を作って家庭を築きたいわけではない。永遠の愛を誓うわけでもない。孤立した賃貸というコロニーの間で「体液を交流したい」のである。マイクロバイオームは新たな身体という海に引っ越したいのだ。相手が同性か異性か、イヌか植物か、年齢は釣り合っているか?そんなことは構いはしない。この話はまた今度(笑)。

介護施設で職員のお尻を触ったりすると、エロジジイと言われる。悪くすれば食事に混ぜものされる。それは仕方ないことなのだ。しかし、エロジジイにも欲望は有る。今の僕にだってある。可愛い女の子は好きだ。それで経済は回っている。この話はまた今度(笑)。

僕の食事のガイドライン

僕は「政治的に正しい栄養学の食事」こそが私達を苦しめていると考えている。「給食、病院、施設、刑務所」公的な資金(税金)を使った食事は公平で健康にならなければならない(根拠が医学的に証明されていなければ訴訟沙汰になる)。そしてそのマニュアルは商品化された諸くじ全般に適用される。僕が毎日自分で食事をつくるというと「食事は大事だから自己流」はやめたほうが良いと言われる。2世代前までは食事は家庭で作られていたのだ。誰も何を食べればいいかなどと迷わなかった。健康診断も検査値の異常もなかった。

大量の食事を作るマニュアルは個人の食事を作るためには役に立たない。抽象的で解釈がいくらでもできる。

考えてみてもらいたい、これだけ生活習慣病が私達に恐怖を与えているのは、今行われている政策が間違えているのだ。医師の言うことを聞かない事だ。医師の言うことを聞いていたら、今施設や病院で苦しんでいる多くの人と同じ目に合う。

医学は一つ一つの疾病の因果関係を証明するだろう。食事調査を行い、食事の中の1要素が違う「集団の間での病人の比率」を測り、それをエビデンスと呼ぶだろう。

しかし、大事なことは自分がどうなるかだ。どんな食事を食べればいいいのかということだ。医師も早く気がついたほうが良い。今元気(検査値が正常)でもそれは将来の健康を意味するものではない。

医師や栄養士の警句はコロコロ変わる。最新の知見という言葉での誤りがなかったように振る舞う。では、最新の知見は30年後にも正しいのだろうか?なぜ今まで嘘教えてきても気が付かなかったかの検証がないから同じ彩mリを繰り返す。お医者様は呑気な商売だ。

そして白衣の妄言は具体的な食事作りには反映させようがない。売られている弁当に付いている太鼓判の数を数えるだけだ。

では何もなすすべはないだろうか?

僕はそうは思わない。食事の価値に気がつけば良いのだ。決して食事は満腹になることが大事なのではない。50年前に作られていたように、素材を大事にして食物の持っている「水=数十億の蛋白と脂質の化合物が溶け込んでいる水溶液=生命」をできるだけ身体というコロニーに持ってくるのだ。

炭水化物は毒ではない。余りに魅力的だから食卓から生命を追い出すのだ。「乾燥・濃縮・抽出工程」を通った食材は生命を持っていない三井イラに過ぎない。満腹になるだけの空っぽの食事だ。

伝統的なレシピの良い所を再評価して、今の食事作りのハートを持ってくるのだ。そうすればきっと心を失わない食事ができる。

売っていないものは自分で作るほかない。

まだ時間は有る。


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映画「ストレイト・ストーリー」は随分前(父も母も元気な頃)にみたきりだ。今見たら全く違ったように見えるかもしれない。主役のリチャード・ファーンズワースは2000年10月6日、自宅においてショットガンで自殺したという。生きていくことは難しい。

注)薬理学的ロボトミー

前頭葉の左右を切り離す手術を「ロボトミー」と言う。1949年には考案者はノーベル賞をもらっている。僕は認知症になり薬で治療していた叔父さんを見舞いに行ったことが有る。椅子に座って体を前後に揺らしながらなにか「ボソボソ」とつぶやいているのだ。認知症というのは恐ろしいものだなと思った。

元気で人当たりのいい叔父さんだった。施設に入った頃は「切り絵」をして他の入居者をおもしろがらせた。やがて他の入居者との交流にも飽きたのだろうと思う。家に帰りたいと言い出して、夜、施設の庭に歩いてでて転んで骨折をした。それ以来「治療」しているそうだ。骨折は治っても、投薬は終わらない。家に帰りたいという気持ちがなくなるまで続く。

施設で20年以上働いている友人に話を聞いたら、「薬理学的ロボトミー」だと言っていた。退屈は人を壊す。

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その人に言わせると、介護保険が出来てから、施設の運用がおかしくなったという。保険が適用されることが重視され、患者と向き合うこと(=コストの掛かること)が悪い事のように言われるようになったと言う。

現場では、食費からカットされると聞く。たしかに私たちの生活でも最初にカットされるのは食費だ。ネットでは、冷凍された介護食品の宣伝満載である。

いずれ自分が入ってお世話になる場所である。自分が入りたいような施設にしたいものだねえと話をした。

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しかし、毎日おしめを替えて、便所ではいくら頼んでも座って小便してくれないから毎日小便の池ができる。ウンコが付いた下着を食事に来る時持ってくる。いくら洗濯物のかごに入れてと頼んでもすぐに忘れる(若い頃からやっているようにしか出来ない)。一緒に食事していれは食べている自分の箸で余ったおかずを僕の皿に乗せる。テーブルを拭いた台拭きは流しに投げる(細かいゴミが台所に巻き散らかされる)。そんな毎日はつらい、そして入居者は悪態をつきながら死んでいく。

先日ひさしぶりにその方と合った。もう施設を辞めて別な仕事をしているという。「父との最後の1ヶ月」を話して。黙って聞いて頷いてくれた。救われた気がした。

仕事として、「入居者を他人として扱っている」からできることだという。家族をケアするとなったら辛いだろうねと言われた。

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施設で働いている人たちには感謝する。話には聞いていたが、家族の介護があんなに大変なものだとは、思いもよらなかった。入浴介護の方やケアマネージャー、別途のレンタル会社の方にお礼を言って回った。皆辛い思いをしているのだなと感じた。彼らのメンタルのサポートはどうなているのだろうか?

職員の人は、終点は「死」である老人たちの人生に向き合っているのだ。職員も抗うつ剤飲ませられながら働いているようでは目も当てられない。

抗うつ剤は「製薬会社や医療関係(経営)者」に大きいな富を与えているだろう。けどね、アンタがたもいずれ通る道だ、この問題を自分の問題として考えたほうが良い。それぞれの場所で何ができるか考えよう。

僕は、心が狂わない食事を作るために、毎日厨房に立つ。

それは自分のためなのだ。一人になっても人様の世話にならないでピンピンコロリと自宅で死にたい。孤独死だと言われても結構だ。父母が愛して家族の思い出の詰まった庭を見ながら、暖かくなること静かに死にたい。向こうに行ったらまた父母と食事するんだ。同じくらいの歳になっていると良いな。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。