強さとは、速さとは。小説「風が強く吹いている」を再読して気づかされたこと
週末、小説「風が強く吹いている」を再読した。
この本を初めて読んだのは2011年、中学卒業間際。駅伝という競技に出会った中学3年、好きになった物事には没頭する癖がある僕はあらゆる選手の情報、過去の映像を見入った。2010-2011シーズンは現在マラソン日本記録保持者の大迫傑が早稲田大学へと入学した年であり、早稲田大学が学生三大駅伝で史上3校目の三冠を達成したシーズンだった。
長距離選手たちが魅せる異次元の走りに魅了された僕はすっかり駅伝沼へと浸たり、行き着いた先がこの「風が強く吹いている」(三浦しをん著)であった。ボロアパートに住む10人の大学生がたった1年足らずで箱根駅伝でシード権を獲るというこの小説。
僕は最初小説ではなく、映画を地元のTSUTAYAでDVDを借りて観た。15歳だった僕は、林遣都が演じる天才ランナー・蔵原走(カケル)の姿に憧れを抱き、アオタケのリーダーである清瀬灰二(ハイジ)の聡明さに感動し泣いたのだった。その後、映画の内容では飽き足らず凡そ670ページにも及ぶ文庫版へと手を出したのであった。
やはり、長距離ランナーであれば誰もが感銘を受けるであろうハイジのあの言葉には15歳ながら考えさせられた。速さと強さ、いったい何が違うのだろうか。清瀬灰二が求めたものとは。
僕はこの本を読んで、高校で駅伝をやりたいと意志を決めた。高校時代は長距離ランナーとして実績を残すことはできなかったが、今でも自分が走っている理由のひとつはこの小説の全編に流れる「走るとはなんなのか」という問いに答えを見つけたいからだと思う。
15歳で読んでから10年の月日が経とうとしているが、ことあるごとに読み返してきた。この物語は駅伝という一競技の青春ドラマとして読むこともできるが、作者の三浦しをんさんは竹青荘(アオタケ)に住む10人の姿を通して「生きることそのもの」を描いたのではないかと思っている。走るという至極単純な競技でありながら、一つのタスキを繋ぎ複数の人生ストーリーが工作する駅伝に投写することで、三浦しをんさんは生きることへ問いを投げかけたかったのだと思う。
そして、あくまで“僕にとって”ではあるが、この本は人生のバイブルだと思っている。走ることに限らず、哲学、恋愛、対話、共同生活……あらゆることにおいて僕自身の価値観をつくるきっかけになったといっても過言ではない。
話を戻して、今回巻末の解説(最相葉月さん)を読んでいて、僕がこれまで抱いてきた仮説に対する答えのような文章に気づいた。
作者の三浦しをんさんは「努力神話」という言葉で問いについて表現しているが、人生はまさに“努力神話”では片付けられないような理不尽なことがしばしば起こる。そして、その理不尽を受け入れ、それでも人生は続いていく。
それは、2年前のnote「それでも人生は続いていく」に書いた、朝ドラ「半分、青い」で漫画家を目指す主人公のスズメやユーコの姿にも共通する部分がある。
僕自身、高校時代に学業・競技面ともに挫折した経験がある。高校2年生の夏合宿前、記録会を走っている最中に右膝に怪我を負い走れなくなった。清瀬が「でも俺は、なにも言えなかった。脚に違和感があっても。」(文庫版p.500)と言っているが、まさにそんな状況だった。当時の先生が悪いとは思わないが、ここで休んでしまったら……という罪悪感が付き纏って休めなかった。また、この記録会で良い記録を残さないと…という目先に目が眩み僕は半年間走れなくなった。
競技面での絶望に引きずられるように勉強にも身が入らなくなり、成績はズルズルと落ちた。そこそこの進学校に通っていた僕は、大学へ入るために毎日毎日家と学校の往復で帰っても寝る間際まで勉強しなければいけない生活が疑問だった(今思えば負け惜しみかもしれないが)。なぜ良い大学に入るために盲目に勉強を続けなければいけないのか、なぜ楽しみよりも義務を優先して家と学校を往復し、その上毎日走らされるのか。当時を思い出すと、自分の闇の部分が引きずり出されるようで苦しい。
僕に限らず、生きていれば様々なことを経験する。勉強を頑張って良い大学にいく、競技を頑張ってインターハイに出る。大学生の就活や社会人になってからだって、こうするべき、これが正解というような正論はどこにでも付き纏う。そのレールをみんなが歩めればいいが、決してそうはなれない現実はある。
物語の前半で走はしばしばこのように理想論を口にするが、これを僕たちの周りに当てはめると「正論」というやつなのだと思う。
世の中にはたくさんのああすべき、こうすべきという価値観や「これが正解」という論に溢れている。「風が強く吹いている」においては、それが“速さ”という尺度で表現されている。
強さと速さ。一見すると陸上競技において、それは同じことではないだろうか。高校生だった頃、陸上競技部で走っていた僕は思った。速くなければ、上には行けないじゃないか。素人同然のアオタケの住人たちに苛立っていた物語前半の走や走の元チームメイトで東体大の榊のように、それが全てだと思っていた。
あれから10年近くの時を経た今、強さとは「自分の価値観を、自身の言葉で表せること」なのではないかと感じている。世間において「これが正解だ」という価値観をすべてとせず、自分が目指したい方向性、ありたい姿を適切に言葉へ変えられる力が強さなのではないかと。もちろん、物語全体やアオタケのリーダーである清瀬の言葉からも理解できるのだが、僕はまわり道をしてきたニコチャンの言葉に共感した。
ハイジでも走でもなく、この言葉を25歳大学生のニコチャンに語らせたからこそ輝いたのではないかと思う。きっと、同じような言葉は清瀬でも語れた。というか、他のところで語っている。けれども、この言葉だけはニコチャンでなければならなかったと思う。
僕自身、大学7年目を迎え、ついにはニコチャンと同じ25歳大学生になってしまう(中学3年の時には想像してなかったんだけどな…)。
まわり道をして同じ年になった今、「生きるうえでの勝利の形など、どこにも明確に用意されていないのと同じように。」という言葉を身を以て呈することができるのは清瀬でも走でもなく、まわり道をしてきたニコチャンしかいないのだと気づかされた。だからこそ、三浦しをんさんはアオタケのメンバーに25歳大学生という存在を入れたのだと思う。
“強さ”という言葉について、僕の身の回りで例えると海外のマラソンに出まくっている友人がいる。それも、速いタイムを狙うためではなく、現地を走って楽しむために。
清瀬が走に長距離選手に対する褒め言葉を問うたあと、こんなことを口にしている。
清瀬がいう強さとは、なんなのだろうか。先ほどの友人を例にとって出せば、速さだけで見れば格段に僕の方が速い。走ることの価値が「速さ」だけであれば、僕のほうが価値があり、彼女の続けてきたことには価値がないということになってしまう。でも、本当にそうだろうか。
彼女自身の価値観を追求し、それを言葉にしてアウトプットし続けてきたということに関して言えば確実に彼女は強い。僕には決して言葉にできない、彼女だけが信じ続けて表現できるものに強さは宿る。
物語は、走が自分は動物と同等ではないか…と思い言葉や思考がないところから、アオタケの住人や六道大のエース藤岡との出会いを通じて自身の言葉を獲得していき強いランナーへと成長していく。自分の考えていることや価値観を適切に言葉としてアウトプットしていくプロセスを垣間見ることができる。そのプロセスを経て、ついには箱根駅伝という大舞台を前に走は清瀬から「俺は藤岡のこともよく知っている。そのうえで断言するが、きみはすごいランナーだ。これからもっと速く、強くなれる」(文庫版p.580)と言葉をかけられる。
話題が前に戻ってしまうが、僕は今でも「結局は競技者である以上、言葉よりも走ることの方が大事なのでは?」と疑問・葛藤を持つことはある。毎週雑談をしている大人へ疑問をぶつけたこともあった。「どうして言葉が必要なんですか?」と。
今回風が強く吹いているを再読していて、まさにその話題を見つけた。
疑問をぶつけた大人から言われた言葉そのものだった。
中学3年生でこの本と出会い、「強さとは、速さとは」という問いに対していまでも答えを見つけようとしている自分の人生にも驚くが、諸々の活動を通じてかじっている内容を15年近くも前に「箱根駅伝」という舞台を通して表現した三浦しをんさんは改めてすごい…と思わされた(もちろん、現実社会ではないにしても)。
思うところあり久々に手にとった風が強く吹いているだったけど、今回も大きな気づきがあった本だった。また来年の箱根駅伝直前くらいに読みたいと思う。
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