引き揚げ船
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地元で、中国語教室に通っていました。人数の減少と参加メンバーの高齢化により一昨年で残念ながら終了してしまいました。70歳過ぎの方を中心に80歳を超えた方も何名かいました。
春節時には餃子パーティーを行い、皆さん家族での参加、春には花見を行い、夏や秋にも有志で食事会を行っていました。若い?メンバーは私含めて3名(60歳未満)その三名で毎回幹事をして盛り上げていました。
そんな時にある年配者の方が教室に見学に来て一緒に中国語を学ぶようになりました。数か月後歓迎会かねて食事会を行いました。週末土曜日の駅近で3時間、17時スタートが基本です。
若手と年配者が何となく席がわかれるのですが、話の内容が聞こえたので移動して年配者側で皆の話を聞いていました。話題は『どの引き揚げ船に乗ったか?』でした。引き揚げ船は知っていましたが、既に歴史上の過去の話や映画の中の話と勝手に思っていました。新しく教室に来られた方も満州で生まれ小学校に入る前に引き揚げ船で帰国したそうです。多くの引き揚げ船が撃沈するなか、生きて帰ってこれて良かった良かったとの涙を流しながら皆さん満州国時代の話をしていました。
一番年配の方は、小学校3年まで満州の小学校に通っていたそうです。生まれてすぐに家族で満州国に移民し、幼稚園・小学校と畑を手伝いながら平和に暮らしていましたが、当時は戦争の事もよくわからず、地域の満州の人達とは家族ぐるみでお付き合いをしていたそうです。
それがある日、ソ連軍が攻めてくると村が大騒ぎになり、何も持たずに母に手を引かれただただ逃げたそうです。日本軍と満州軍が力を合わせてソ連軍を一時撃退するも火力の差が大きすぎて戦車が出て来たときは終わりと思ったそうです。その後、満州人の家で隠れながら生活し母と一緒に引き揚げ船に乗って帰国したそうです。かくまってくれた満州の方々、命を懸けて守ってくれた満州人の軍隊、当時はなんで満州人は引き揚げ船に乗れなかったのか分からなかったと言っていました。
満州は現在の中国の東北三省当たりです。このあたりの方々は日本に対して親近感を持っていると聞いたことがありますが、このような事実があり日本人と平和に暮らした日々を覚えているのかもしれませんね。
満州人と一緒に幼稚園に行き、小学校に行き、学校から帰ると畑の手伝いを毎日のように行い、味噌が手に入ると近所の満州人の家庭に分けたり、一緒に暮らした満州の日々は忘れられないと言っていました。
忘れ去られた過去かも知れませんが、我々が知る満州帝国(映画のラストエンペラー)と当時そこで暮らしていた人々の意識の差はとても多きいと思います。そのような事実があったという事を忘れないようにしたいと思います。
ラストエンペラーの予告見つけました!
ヘッダーの写真は舞鶴引揚記念館から引用させて頂いています。(コロナで5/31まで休館)
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