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ほとけさまのおしえ「人はなぜ死ななければならないのか?」

 私が中学二年の冬、祖父は心筋梗塞で突然亡くなりました。

 前の日まで「自転車」に乗ってお参りに行っていて、その日の夜に息を引き取ったのです。

 その頃の私は、身内が息を引き取るという経験もなく、いつまでも家族は生きているものだと漠然と思っていました。

 もしかしたら死ぬかもしれないけど、まさか家の家族に限ってはそんなことはないだろうと思っていたのです。

 そしてそれからしばらくは悲しみが襲い、気持ちの沈む日々が続きました。

 そしていつしか、「人はいつかは命終えるものなのだ」と心の中で落とし込んだのです。

 でも「どうして死んでしまうのだろう?」という思いはずっと持ち続けていました。

 そしてなるべく死から「遠ざかり」考えないようにして、楽しいことや面白いことの中に紛れ込ませていったように思います。

 当然、「なぜ死ななければならないのか」という答えは最近まで解決しませんでした。

 でも今は仏教を心から学び、それなりに答えは持っているつもりでおります。

 ではどうして人は死ぬのでしょう?

 不注意?不摂生?それとも不運でしょうか?

 もしそうであるとするならば、私たちは全員、不注意であり不摂生であり不運であるはずです。

 それに対する答えは実はお釈迦様が「単純明快」に答えられております。

 「私たちが死んでいくのは、私たちが生まれたからなのだよ。」

 お釈迦様はこのように弟子たちに諭しながら「八十の齢」を閉じられたのです。

 私たちの命は「生死一如」であり、生だけでは語ることはできないのです。

 そのことを「事あるごとに」意識していく。

 それこそが「よりよく」生きることにも繋がってくるのだと思っております。


☆今日の一句☆

 生き死には
     上下左右の
         如く対(つい)



 

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