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似て非なるもの1

前回、私は以下のように述べました。

「自分の命を差し出すぐらいの気持ち」は、自分の命を差し出すと同義ではありません。
似て非なるものです。

今回から、似て非なるものを述べていきます。

命懸けでやる

命懸けでやる。
命懸けでやるぐらいの気持ちでやる。
この2つは似て非なるものです。

どちらも恥ずべきものですが、団塊の前後ぐらいのクソジジイどもは平気で言いますね。

命懸けでやってしまうと、効率が激減してしまいます。そして、人的資源、特に残業時間、の投入でカバーしてしまいます。
また、人的資源の投入でカバーできてしまうので、見直しが図られない。根本に立ち戻れない。
負の前例踏襲が繰り返される原因となります。
諸悪の根源でしかありません。

命懸けでやるぐらいの気持ちでやる

そうじゃない。
命懸けでやるぐらいの気持ちでやる、だ。
そう言いたい人はパワハラ上司の素質がありますから、一生ヒラで黙っていてください。

命懸けでやるぐらいの気持ちでやる、という言葉は、「私はそうやってきた。」が隠れています。
また、「他人もそうやれ。」もしくは「そうやれとは言わないまでも、何故そうしないのか。」が隠れています。
命令、もしくは、疑問という体裁の命令です。
疑問というテイで偽装しようと、同調圧力を利用しただけの実質的命令に過ぎません。

そもそもそういう「気持ち」だのという責任逃れのオブラートがあるだけに過ぎません。
実質的には「命懸けでやれ。」と同義です。

人間が死んでも責任を取らないパワハラ上司こそこういった薄汚い言葉を好んで使うので話になりませんね。
過労自殺の遺族に石を投げられる覚悟があるなら絶対に言わないですから。

命懸けでやる羽目になった

命懸けでやる羽目になった、ならわかります。

命懸けでやらずに済むようにしていたけれども、その予測が外れてしまって、命懸けでやる羽目になってしまった。

これならまだわかります。
少し余力を持って取り組んだほうが上手くいくのですから。
予測の精度を上げ、次こそ命懸けでやらずに済むように、人的資源の最適化に努力するようになるでしょう。

命懸けでやるべきことは、そうそうありません。
もし頻繁にあるなら、命懸けにならざるを得ない目標や環境に瑕疵があります。
目標設定や職場環境の見直しをするべきですね。
もちろん命懸けを無理強いしない見直しです。

命懸けなんてやらずに済むならやるべきでない。
それぐらいの境地になれてやっと、命懸けでやる羽目になった、と言えるのでしょうね。
命懸けは本当に辛く、絶対にもう二度とやりたくないものです。

気がつけば命懸けでやっていた、というのは没頭や没入の部分が素晴らしいだけです。
命懸けの部分は素晴らしくありません。

自分は他人ではない

しかしながら、ぬるま湯に浸かるべきだ、ということではありません。
コンフォートゾーン(快適な場所)に、ずっと居続けなければならない理屈はありません。
命に支障が出ない範囲内であれば、個々人が尽力するのは良いことです。
ただ、命に支障が出るかどうかは、個々人で全く違います。
自分の命に支障がない範囲と、他人の命に支障がない範囲は違うのです。

自分は他人ではないのです。
他人は自分ではないのです。

次回も続きにしようと思います。

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