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通り雨【エッセイ】一四〇〇字(本文)

 早大オープンカレッジ「エッセイ教室」春講座の7回目(全8課題)のお題が、「通り雨」(600字)だった。テーマは、「過ぎ去った想い出」。未発表であったので、600字を膨らましnote用に書き換えて投稿します。さて、あなたなら何を書きますか?「過ぎ去った想い出」? 「想い出」って、過ぎ去ったものでしょ?過ぎ去らない想い出ってあるか?夏井さんなら、赤マジックでバッサリだな。オシっ、講師に文句言ってやろうっと。
                  ※
 1970年代最後の年。29歳の4月から、職業訓練校にいた。経理1年コースの、訓練生として。
 中学までは、順風満帆。その後は雨続き。北海道・北空知の進学校に入学した後、長期入院で、留年。案の定、受験に失敗。札幌で浪人するも、北大に入った同窓のTの影響で、学生運動に患い、2浪。親不孝を反省。やっとやる気を出し、東京の大学に入学する。
 入学したはいいが、時代は大学紛争。ロックアウト続きで、バイト中心の学園生活。が、適度に恋愛があったので、ある面で、雨の晴れ間もあった4年間ではあった。
 いざ求職となったが、以降は誘われるままに、運命に身を委ねる。バイト先のオーナーの誘いで、ブームの予感があった外食チェーンの事業化で、群馬に。が、2年で頓挫。その際に知り合った、店舗設計会社の社長に誘われ、大阪に。途中で、リクルート社の元担当の声かけで、3か月後、東京。大手居酒屋企業のレストラン計画に参画。が、中止。挫折の連続。傷心のうちに、やはり「手に職」かと、簿記2級をめざし、入学したのだった。
(なんとまあ・・・、履歴書に記入するのが一苦労するほど————)
 クラスは、30名。オイルショックの後、失職したり、職種を変えようとしたりと、経理を学ぶ大人がクラスメイト。かといって30代は少なく、多くが20代。講師が教室に来るので、大学というより、専門学校の雰囲気。クラスの代表や会計などの担当も決める。なぜかわからないが、比較的、年長者だったからか、代表に選ばれる。科目特性から女性が多く、男は10名位。そのことも関係したのだと思う。よって、さっそくあだ名が付き、“組長”。役割は、コンパやハイキングなどの行事の企画。得意分野であった。授業は、9時始まりで午前中に2小間、午後に1小間。90分授業だった。3時前には終わる。目標は、簿記2級合格。2か月半で、日商簿記3級を受験。全員合格したと思う。その後は、年開けに2級の合格を目指す。
 専門学校のような雰囲気と言っても、大人の集まりなので、タバコを吸う者、授業が終われば、酒を飲みに行ったりする。自然にカップルができたりもする。6割以上が女性なので、競争率は低い。といって、むろん二股をかけるような悪事は許されない。噂が広まらないように、隠密行動をとることになる。しかし、慎重に行動したつもりでもバレるもので、暗黙の了解でカップルが何組かできていった。
 その中のひとりに、自分もいた。クラスで高尾山へのハイキングに行った帰り、銀行に勤めていた女性と二人で呑みに行くことになり、そのまま彼女の部屋で夜をともにした。
 簿記2級も取得し、その後17年間勤めることになる翻訳教育会社へ経理として就職。訓練校入学前から住んでいた、三鷹のアパートでそのひとと同棲していた。しかし、31歳を前にした春、1年半の付き合いで、終った。その後のことを『同棲』というエッセイに書いたのだが、舞い込んだ子猫と入れ違いだったのだ。

 20代までは、豪雨に降られっぱなしとしか思えなかった。が、訓練校では、高校、大学時代に戻ったようで、やっと、一息つけた思いがした1年だった。
 その“雨宿り”以降は、晴れ。翻訳教育会社では、経理から、のちに天職となる広告企画の部署に移り、水を得た魚のごとくに、終電までの仕事人間だった。幸いにも出世し、最後は社長と衝突し独立することになるが、なんとか成果を得ることができた、と思う。10代中半から20代を振り返ると、単なる通り雨だったのかと、思えるようになっている。

吉田拓郎『たどり着いたらいつも雨降り』

(おまけ)
(今のシステムはわからないが)当時の雇用保険(失業保険)制度は、失業後半年は、退職時の給与額の3分の2の額が給付され、職業訓練校に入学した場合は、その期間中、同額を受け取れる。卒業後も求職期間として半年間、継続される。私の場合、29歳の9月に退職し、半年目の4月に入学。1年間の訓練生(卒業は2月だったと思う)。就職したのは6月なので、2年近く給付金を受け取ったことになる。雇用保険を払っていて給金を1度も受け取っていない方に申し訳ないが、かなり元をとってことになる。<感謝・感謝である>

(つぶやき)
「間違っても、国葬なんて主張しないでしょうね」と、過日書いた。が、現実になろうとしている。(-_-;)
彼の「功罪」の「罪」が明かになっていない、「功」にしても、きちんと検証されていないにもかかわらず、である。
きのうの朝日新聞朝刊の下記記事に注目した。
放送大の原武史教授は、
「事件から1週間もたたないうちにそそくさと決めたことに驚いている。吉田茂元首相に匹敵するような偉大な政治家として顕彰しよう、という政府の意思だろう」と分析。「吉田元首相が天寿をまっとうし、戦後日本の礎を築いたという国民的な評価があったのに対し、安倍元首相の死はあまりにも突然だった。これまでに明らかにされていない事実も含めて政権の功罪が検証されるよりも前に、『志半ばにして非業の死を遂げた偉大な政治家』という一方的な評価を確立させようとする思惑を感じる」と指摘する。
「国葬」に係わる法律は戦後すぐに廃止され、戦後唯一の吉田茂元首相の「国葬」が異例とされた。異例の異例(“慰霊”)を、また行うというのか。「政権の功罪が検証されるよりも前に」。国民に不誠実な政治の時代は、単なる「通り雨」だったね、と思える日が来ることを切に願う。
「国葬」問題については、note仲間、アルプ・スナフキン氏が、本日夕刻(17:30頃)に記事をアップする予定らしいので、彼に委ねる。


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