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順応【エッセイ】二四〇〇字

 「こにち」のアクセントは「よう言えんかった」けど、「なんでやねん」「知らんけど」などは、よく使っていたような気がする。

 半世紀前だが、大阪に3か月だけ住んだことがある。
 学生時代にバイトした店のオーナーに誘われ、先駆的な業態だったファミリーレストランのチェーン化に、卒業後に参画。失敗に終わるのだが、コンサルしてくれた大阪の店舗設計会社社長の声かけで、東京から生活道具一式を積み込み車で向かった(結果的に、チェーン化を計画する東京の会社からのハンティングで戻ることになるのだが・・・)。
 大阪では、気付いたらそれっぽい言葉を関西人になりきったつもりで口にしていた。いや、関西圏に足を踏み入れた瞬間に伝播していたような気もする。
 関西弁って、なぜ、感染しやすいんだろうと思った。他の地方の方言は、そんなことはないのに。
 その関西弁もネイティブスピーカーに言わせれば、エリアによっての違いがある、と宣う。和歌山だとか、河内だとか、泉州だとか、 京都だとか、丹波だとか、舞鶴だとか、奈良だとか、神戸だとか、淡路だとか。いや、それでも大雑把すぎる、まだ微妙な違いがあると、おっしゃる。私にとってはその区別なんて、フランス語の方言の違いを聞き分けるに等しいのだが・・・(行ったことないけど)。

 その大阪時代と10年後、仲良かった女性が二人いるのだけど、関西弁に魅了されてしまったのは、その影響も大きかったように思う。ひとりは、その設計会社の先輩の自宅のお隣さん。台所にある小窓で繋がっている不思議な構造で、デートのあと先輩の家の台所から洗った後のすっぴん顔まで鑑賞してしまった。田辺あたりだった。もうひとりは、三十路から17年勤めた会社の大阪支部にいた部下で、和歌山出身のひと。いずれも、素面のときの口調は圧倒されっぱなしという感じだったが、酒を入れたときは、艶がある。その都度、関西弁っていいな、と思った(方言の違いは分からないけども)。

 この「環境適応能力」は、採れた土地が北海道ということと、その栽培環境が大きく関係しているように思う。

 父親は、公務員。農林省の(今はないが)食糧庁職員。ようするに米などの農産物の等級を査定する検査官。当然、田舎が職場。検査官の「舌」三寸(米をかじる)で農家の収入が決まってしまうので、癒着を避けて、道内ではあるが短期間で転勤させられる。むろん、子どもは転校を余儀なくされる。だいたい1、2年。最短で9か月という学校もあった。小学校6年間で、4回の転校、5つの学校を経験した。
 そこまで転校を重ねると、慣れっこというか諦めというか、悟りの境地に達する。「嗚呼・・・。ま、いいさ、次の学校には、もっとかわい子がいるだろうし・・・」なんて、不純な慰めで言い聞かせていた。
 こんな転校っ子は、新しい学校で慣れるのに時間をかけていられない。瞬時に溶け込む術を身に着けることになる。むろん、現地語に合わせる必要もある。が幸い、5か所の地域は道央が中心だったので、大きな違いはなく問題はなかった。さらに、父の影響か、標準語だった。というのは、父は、海軍出身。戦友は全国から集まってくる。地元言葉丸出しの人間もいれば、標準語を使うものも。父は、その後者だったようだ。お世辞にも訛っていないとは言えないのだが、当人はそのつもり。テレビを観ているときNHKのアナウンサーに向かって、「こいつ、訛っている」と、よく口にしていた。
 軍隊と同様に、北海道は全国から移住してきた人たちで構成されるからだろうか、比較的に標準語に近いと、言われていた。
 それでも、『北の国から』の純や、草太兄ちゃん、正太でお馴染み、「だべ」「ね~」のように語尾が東北訛りの流れを汲んでいる。
 強い訛りがないとはいえ周りは「ね~」言葉。標準語を使う「転校生」は、イジメの原因になる。のだが、それはなかった。前の学校で野球部だったことを知り、真っ先に誘われる。野球部は一番ケンカが強いことが多く、手出しできない。とくにピッチャーは大切にされる。

 こんな育ちのおかげで、上京しても流暢な標準語。あたかも山の手の自宅っ子であるかのようなすまし顔をして、融和できた。
 しかし大阪は、関西という独特の文化が、それを許さないはずだったのが、それも自然だった。すんなりと入り込めた。やはり、道産子ということと「転校生」の順応性を活かしたエセ関西弁が受け入れられたのだろうと思う。
 そう言えば、大阪の大学に進んだ演劇部の先輩が舞台練習を観に来たとき、「ジブン。なんでやねん。ちゃうやろ、それ」なんて、コテコテの関西弁を使いこなしていた。

 それと何よりも、やはりラジオ・テレビから流れてくる漫才が、関西弁の普及に貢献したのではないだろうか。
 その始まりとなるのは「エンタツ・アチャコ」だが、映画でかろうじて見た程度。完全に洗脳されたのは、1962年頃から1970年頃にかけて起こった演芸ブーム。決定的になったのが、横山やすし・西川きよし。
 ご多分に漏れず、誘ってくれた社長は、ヘアースタイルもファッションも話し方も、横山やすしそのものだった。取引先でも、社長とボケ・ツッコミ。「なんでやねん」「知らんけど」なんてやっていた。

 北海道のそもそものネイティブは、もちろん、アイヌ民族である。その土地への「侵略」から「和人」の歴史が始まっているわけなので、「フロンティア精神」なんて言葉を、呑気には使えない。しかし、われわれ道産子の先祖は、貧困という事情を抱え、「内地」から逃げるように未開の極寒の地に移住し、血と汗と涙にまみれて開墾せざるを得なかった、「順応」の歴史がある。私も、その末裔なのである。

 アイヌ語で好きな言葉がある。「こんにちは」(「こんばんは」とも)という意味の「イランカラプテ」である(「イラン空手部」って憶えている)。
 アイヌ文化研究者であり、アイヌ初の国会議員となった萱野茂かやのしげる氏は、この言葉の原義を「あなたの心にそっと触れさせていただきます」と解釈している。また、「あなたの心に寄り添いたい」との意味でも使われている。

「イランカラプテ」


(後記)
亡き弟の妻や娘家族が住む「新」十津川という街は、奈良の十津川村から移住してきた先祖が開墾した町。十津川の大水害から逃れるように道央の地に来た。ここに両親と弟の墓がある。
(NHKのドラマ『新十津川物語』でも知られる)

TOP画像:prtimes.jp


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