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人形【エッセイ】

 半世紀前の話。高校二年のとき、「民主青年新聞」なるものを、購読していた。民青に入っていた演劇部同期の、T君の影響だった。
 夏休みに入って、八・六ヒロシマ大行進に誘われる。北海道滝川から広島への旅費は当然、ない。母にその許可と旅費を、お願いする。すでに「新聞」のことは知っていて、泣きながら反対され、諦める。母の涙には、弱い。片やT君は、予定通りに広島に、出向く。
 T君はその後、高校を中退。九州の劇団に入る。私といえば、結核を患い留年。俳優養成学校をめざすも、ここでも、父に猛反対され、断念。海軍の軍人から公務員になった父親からすれば、商い人は、人をだます仕事であり、俳優は「河原乞食」となる。海軍仕込みのスパルタ教育にも、逆らえなかった。反して、自由人で奔放なT君が、羨ましかった。
 翌年、札幌で下宿し、予備校に。親が期待するままに、操られ続けることに、なる。
 が、その反動だったのだろう。予備校をサボり、大江の発禁本『政治少年死す』の自費出版に、関わる。案の定、二浪と、あいなる。
 親不孝だったが、望む通りに東京の大学に、進学した。糸が解き放たれ、自由になったはずなのだが、操り手へ抵抗する必要がなくなり、糸の切れた人形のようになってしまったのかも、しれない。悔いが残っていたはずのヒロシマへの想いは、内ゲバに象徴される学園紛争の激化とともに、薄れていった。
 広島を訪れるのは、その二十数年後。これもT君の薦めで読み始めた大江が、ノーベル賞を受賞した年。『ヒロシマ・ノート』を読み返し、T君を思い出したから、だった。
 昨年九月末にも、広島を訪ねた。その二年前、原爆資料館が改修されたことを、知って。
 が、前回衝撃を受けた、やけどで皮膚がぶらさがった「被爆再現人形」は、なかった。美術館のように、アートに、演出されていた。

 因みにT君は、札幌で息子と会社を、営んでいる。

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