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【掲載報告】「誰のための地方創生か:参加と地域メンバーシップの変容をめぐる『地方』の課題」(『アレ』Vol.8所収)

このところ、ためていたネタを投稿し続けています。今回は、時期的には遅くなりましたが、2020年9月に無事(無事!)刊行されたジャンル不定カルチャー誌『アレ』Vol.8に収めていただいている自作「誰のための地方創生か:参加と地域メンバーシップの変容をめぐる「地方」の課題」について、簡単に解題をしたいと思います。

本稿は、2014年から始まった地方創生という言葉に括られる一連の地域活性化に関する取り組みについて、その動向を整理するとともに、政治思想史的、地域学的、カルチュラルスタディーズ的な切り口でその成果と課題について論じたものです。

本稿は2019年12月に初稿が書きあがり、翌3月に校正が終了しました。つまり、2014年から5か年計画として推進された第一期地方創生戦略に対する総まとめという位置づけを有しています。もちろん全国各地の事例に触れることはできず、引用する文献も決して網羅的ではありません。他方で、本稿ではこれまであまり試みることがされてこなかった、「地方創生」についての政治思想史的な考察を中心に、議論を展開しています。とりわけ、イングランド型の共和主義をベースに、現在の地方創生を「地域づくりにおける共和主義的転回」と表現して、その意味を論じています。

お読みになられた方には、民主主義に関する議論が大変おおざっぱだという感想を持たれたことと思います。言い訳でもありますが、それは、本稿ではこの「共和主義的転回」が重要な位置を占めているため、その対比のツールとして民主主義を理念系的に用いているためです。もっとも、それでは「地方創生」における民主主義/デモクラシーとはいかにあるべきかについては、当然僕の今後の課題です。

そもそも「地方創生」とは政治用語・政策用語です。ゆえにカッコでくくっています。その政策としての「地方創生」がいかなる取り組みや、過去の経緯によって成立しているかを描き出すこともまた、本稿の狙いでした。そしてそれは、当の現場でどのように運用され、機能し、意味を持っているのか。それをKPIとは違う形で評価しようともしています。

そして何より、この「共和主義的転回」とは、僕のような、ある地域にとって関係人口であるような存在(人材)に対する問いを投げかけるものです。ゆえに本稿は、僕自身にとっての倫理や規範、課題についての文章でもあります。

地域おこしや地方創生という領域については、地域学という学際的な学問が研究の対象としてきました。ただし地域学は、「工学モデル」的な発想で、誤解を恐れずに簡略すれば、課題を抱える地域が何とか助かるなら何でもいい、という精神を内面化しています。それはある意味ナショナリズム的で、国土、人口、そして生産力をいかにして維持していくかというテーゼから演繹された課題意識と言えるでしょう。

それに対しては、別に活性化を望んでいない地域もあるのだから、静かに閉じていくことに寄り添おうではないかという「村おさめ」や「尊厳ある縮退」という考え方が表れてきました。このことは本稿では言及していませんが、重要な取り組みだと思います。

こうした流れの中で本稿では、工学的な課題解決にせよ、倫理的な住民意思尊重にせよ、そうした取り組みにある人が関わることの正統性について考えようとしています。簡単に言えば、外からきていずれは去るような人間には、その地域に関わる権利がどこまであるのか。その地域を改変することにつながるならなおさらです。そしてその外から来た人たちにはいかなる規範意識を持つ必要があるのか。これを第一級のデモクラシーの問題と考えて議論を進めているのが、本稿の特徴です。

2020年からは地方創生戦略(正称:まち・ひと・しごと創生戦略)は二期目に入ります。第一期の課題は、結局のところ東京一極集中を防ぐことができなかったことです。それに少子化の問題が重なってきます。僕はここでも、子どもを産む・産まない、あるいはどこに住みたいかというプライバシー的な権利と、人口を維持し経済を回すという国家的命題のコンフリクトを感じます。とは言えそんなコンフリクトすら、地球におけるただの一国家の事情にすぎません。地球規模で考えれば、気候変動に代表される大規模な課題の前にこそ、僕たちの暮らしの中にある権利をどのようにアップデートしていくのかが問われるべきです。

ともかく、本稿は「地方創生」を今一度整理して考えてみたい方に向けて書いた文章ですので、ぜひお手に取っていただければと思います。以下のサイトに、販売されている書店のリストがありますので、よろしくお願いいたします。


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