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「大衆の反逆」(オルテガ・イ・ガセット)

今回はオルテガです。比較的平易な文章なので読みやすいですが、一応分類としては哲学書になるのではないかと思います。当時の時代背景を踏まえると、更に深く理解できると思いますし、現在でも使える知恵が導けるので、その辺りもご紹介したいと思っています。

■前置き

西欧哲学を理解する為の2つのポイントがあると思っています。どちらも哲学者たちが小難しく語ってますが、庶民レベルではもっとシンプルに身近に考えれば良いと思います。

1つは「個人vs共同体」の意志の問題です。ヘーゲルは個人には「意識」、共同体には「精神」という単語を充てて明確に使い分けていますが、主題は個人と共同体では損得が一致しないということです。そして、そこにどう折り合うをつけるかという問題です。卑近な例でいうと、マンション管理組合は居住者にとって重要な共同体で、その役員という仕事は重要な仕事ですが、その仕事を引き受ける個人としては何だか迷惑感が強いのと似たようなものです。ヘーゲルも精神現象学で難しいことを言ってますが、あの本の主題の1つはここにあると私は感じています。
実はこれは西欧に限らない問題で、社会的な問題はこのフレーム(対立構造)に落とし込むと構造が見えるようになり、論理的な解決策など存在しないことが分かります。なのでお互いを尊重しつつ妥協を探りながら進んで行くしかないとなります。

もう1つは形而上学です。形而上学というと難しそうですが、「彼岸(=この世ではないという程度の意味)に置かれた普遍的・絶対的存在(=時間が経ってもいつまでも変わらない物差し)」についての話です。日本流に言えば「お天道様」です。つまり、どこかあの世にあって何が正しいのかを教えてくれる判断基準です。「お天道様が見てるよ~」という脅し文句が、悪い子にある程度の意味を為すのはそういう理由ですよね。
以前にも書きましたが、過去2000年以上、西欧ではその存在を議論し続けた訳ですが、ニーチェという方が「そんなものはいない。捏造に過ぎない。(=神は死んだ)」と喝破してしまいました。それからというもの、西欧はそんなものに判断基準を頼っていたので、神が死んだおかげで何が正しいのか混乱していました。西欧の没落です。(今でも続いてますが)

そんな時代に何とか西欧を救おうと立ち上がっていたのがハイデガーであり、サルトルであり、そしてこのオルテガです。こんな時代背景を理解すれば、このオルテガが語る内容と意味が理解しやすいのではないでしょうか。
オルテガの提案は、「理性なんて頼りにならないので観念主義や啓蒙主義なんか捨てて、経験主義や保守思想に戻ろう」ということだと思います。観念主義や経験主義についてはこちらを参照ください。

では、オルテガの言葉の数々をご紹介しましょう。因みに、オルテガのいう「大衆」は一般的な会話で呼ぶ「大衆」とは違いますが、おいおい分かってきます。

■オルテガの言葉

1)ヨーロッパ最大の危機
・今日のヨーロッパ社会での重要な事実の1つは「大衆」が完全な社会的権力の座に上ったということ。
・この事実は、ヨーロッパが今日、民族や文化が遭遇しうる最大の危機の直面していることを意味している。

2)「大衆」ってどんな人たち
・社会はつねに、少数者と大衆のダイナミックな統一体である。少数者とは特別の資質を供えた個人又はその集団で、大衆とはそうではない人々の総体である。
・社会階級による分類ではなく、人間の精神性による分類。
⇒社会的地位は関係ない。どういう意識を持っているかということ。

・大衆とは平均人のことである。良い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに喜んでいる人である。
・選ばれた少数者とは、自己を過信した僭越者ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して多くの高度な要求を課す人
・本来は少数者のものだった活動分野を大衆が簒奪しようと自己決定した。同じことが政治以外の分野でも、特に知的な分野で起こっている。

・我々の時代を支配しているのは大衆人であり(中略)、しかしそれは、デモクラシーの時代、普通選挙の時代にもあったことではないかというようなことは言わないで戴きたい。普通選挙においては、大衆は決定したのではない。彼らの役割はいずれかの少数者の決定に賛同することにあったのである。(中略)ところが、今日の事情はこれとは非常に違っている。(中略)驚くべきことに政治的にはその日暮らしをしていることに気付く。
⇒これまでの指導層たる少数者はまともだったが、今の指導層は大衆化してしまったという意味でしょう。

・大衆が社会的権力を直接行使した場合は、(中略)それは全能でありながらその日暮らしなのである。大衆人とは生の計画を持たない人間であり、波のまにまに漂う人間である。

3)「生」って?

・真の生の充実は、満足や達成や到着にあるのではない。自己の願望・理想を満足させたら、それ以上は望まなくなる。要するに、かの素晴らしき頂点は、実は終末に他ならない。
・実は自分が過去のどの生よりもいっそう生であると感じるあまり、過去に対する一切の敬意と配慮を失っている。
・我々の時代の特徴は「自分が過去のあらゆる時代以上のものである」と奇妙な自惚れを持っていること。
・自分自身を全ての過ぎ去った生に勝るとともに、それらには還元しえない1つの新しい生であるとみなしている。

4)何故、大衆は力をもったのか

・(ヨーロッパ人の人口が1800年~1914年の間で1.8億人から4.6億人に爆増したというデータを受けて)成長の異常な速さである。(中略)その1人1人を伝統的な文化で満たすことが困難なほどの急速度で大量の人間また人間が、どっと歴史上に吐き出された
・大衆に近代生活の技術しか教えず(中略)。大衆は、より強力に生きるための道具は与えられたが、偉大なる歴史的使命に対する感受性は授けられなかった。(中略)精神は植え付けられなかった。

・各社会階層の平均人は、自分たちの経済的展望が日ごとに開けてゆくのをまのあたりにしたのである。彼らの生の標準につぎつぎと新しい「贅」が加えられていった。

5)「大衆」とは(再び)

・今日の大衆人の心理図表にまず2つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれた全ての者に対する徹底的な忘恩である。この2つの傾向はあの甘やかされた子供の心理に特徴的なものである。
・誰かを甘やかすというのは、彼の欲望に何の制限も加えないこと、自分にはいっさいのことが許されており、何の義務も課せられていないという印象を彼に与えることである。
・彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。

・最も恐ろしい問題とは、(中略)文明の諸原理に何ら関心をもたないタイプの人間が社会的指導権を掌握してしまったということである。(中略)彼らが麻酔薬や自動車やその他2,3のものに関心を持っているのは明らかである。しかし、この事実は、むしろ彼らが文明に対して完全に無関心であることを確認することに他ならない。なぜならば、そうしたものは単なる文明の産物であるにすぎないのであり...

・彼は驚くほど効果的な道具(中略)に取り囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することの難しさやそれらの生産を将来も保証することの難しさを知らないし、(中略)自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。

・「大衆」とは特に労働者を意味するものではない。私のいう大衆とは1つの社会層を指すのではなく、今日あらゆる社会層の中に現れており...
・ブルジョアジーの中で、もっとの優れたグループ、つまり今日の貴族とみなされているのは誰だろうか。それは疑いもなく専門家、つまり技師、医者、財政家、教師等々である。それではこの専門家の中で最も高度にして最も純粋に専門家であるのは誰か。それは疑いもなく科学者である。(中略)その結果は、今日の科学者こそ、大衆人の典型だということになる。
・物理学の発展は。総合統一とはまったく逆の動きを要求した。科学が発展するためには、科学者が専門化する必要があった。(中略)科学者が一世代ごとにまずます狭くなる知的活動分野に閉じ籠っていく(中略)(重要なことは)徐々に科学の他の分野との接触を失ってゆき、宇宙の総体的解明から遠ざかっていった過程である。ところが、この宇宙の総体的解明こそが、ヨーロッパ的科学、文化、文明の名に値する唯一のものあのである。
・歴史上前代未聞の科学者のタイプが現れた。(中略)1つの特定科学だけしか知らず、しかもその科学のうちでも自分が積極的に研究している狭い領域に属さないいっさいのことを知らないことを「美徳」と公言し、(中略)彼の自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間になってしまったのである。しかし、この自己満足と自己愛の感情は、彼をして自分の専門外での分野においても支配権を奮いたいという願望にかり立てることになろう。
・彼らの野蛮性こそが。ヨーロッパも堕落の最も直接的な原因なのである。
・専門化のもっとも端的な結果は、今日かつてないほど多くの「学者」がいるのに(中略)はるかに教養人が少ない。

■今でも生きている

・ニーチェ、オルテガ、ハイデガー、これらに共通するのは、西欧文化がここまで発展し、その成果を「個人」に還元できたのは、それを支えた西欧哲学のおかげであり、形而上学のおかげであったという認識。つまり、人々が真理を求める力がその推進のエネルギーであったということ。しかし、ある時から理性が暴走し、「神が死んだ」ことで、そのエネルギー(=生)を失ってしまった。西欧哲学の産物である西欧文化は慣性の力である程度まで発展続けるが、新しい何かを生み出す根本的な力を失ったので衰退方向に向うハズという認識です。

・ここでは西欧が共同体になっていますが、共同体に現代の「会社」を当て嵌めると、なかなかいい教訓を引き出せます。
会社(=事業)のコアは何でしょうか?という話です。技術、ノウハウ、知識、人的ネットワーク、サプライチェーン...などが直ぐに頭に浮かびますが、もっと大事なものがあるということです。それは、技術とかを生み出す力(=事業への思い)です。技術もノウハウも、その思いの産物ですが、産物はいずれ陳腐化します。
そんな「思い」を持つのは「人」であり、多くは「創業者」の「高い倫理性を持った事業への思い」です。会社が今後とも成長していく必要条件は実はここにあるという訳です。企業が代替わりして衰退していくのも、中興の祖が復活させるのも、そんな力が働いていることが大きな原因であると思わざるを得ません。以前のような観念論的MBAの方々はどう思われるでしょうか?