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人生の思い出

66年間の人生の中で思い出に残っている嬉しかったことや楽しかったこと。
いつも後ろ向きなことや不満しか書いていないので、たまにはこういうことを書いてみようと思う。

【空手】
何ごとにも自信を持てず、引っ込み思案でいつも下を向いている私に業を煮やした父に無理やり入門させられた空手道場。
高校生のとき。
西新宿の古い雑居ビルの4階にあった道場。
恐る恐る行ってみると黒い帯をつけた男性が一人いた。
鏡を見ながら蹴りの稽古をしていた。
入門したい旨を告げて手続きをした。
後日、空手着を買って稽古に行った。
今度は何人かいた。
全員大人。
場所柄もあったのだろう、その道場には子供はおろか、学生は一人もいなかった。
だから、高校生の私が最年少で、そういう意味でも可愛がってもらった。
多少器用なところがあるので、緑帯、茶帯と割合すんなり取れた。
その道場では茶帯の次が黒帯。

空手の競技には二つある。
一つは型。
一人で、決められた順番通りに、技を繰り出してゆく。
そして、もう一つが組み手。
闘い。
入門したときも、入門してからもしばらく知らなかったのだが、その道場での組み手は防具付き空手というものだった。
https://youtu.be/9NYhIuZNsIk
そんな大事なことも知らずに入門するほど物事に無関心だった。
自分がああいう過激なことをやることは想像もしていなかった。
大人ばかりの中の高校生だったこともあり、先生も私にその組み手をやらせることを躊躇していたのかもしれない。
ある日、「やってみるか?」と聞かれ、ためらうこともなくやってみた。
しこたま殴られ、蹴られた。
口の中は切れ、食べ物がしみるのでしばらく食事ができないほどだった。
でも、何故かやめようとは思わなかった。
その後も先輩に防具なしで稽古をつけられたこともある。
遠慮なしに殴られた。
みぞおちに蹴りが入り、のたうちまわったこともある。
でも、やめようと思ったことは一度もなかった。
何故だか分からない。
それどころか、その組み手に夢中になり、どうしたら強くなれるかということばかり考えるようになった。
一般に空手では組み手と型の両方をやらなくてはならないのだが、型には興味がなくなり、まったくやらなくなった。
先生もそれを許してくれた。

試合にも出た。
全国大会という大きな大会もあった。
残念ながら良い成績をおさめることはできなかったが、普段は味わえない緊張感が好きだった。

【(アイス)ホッケー】
空手と同じく高校生のことに目覚めたのがホッケー。
忘れもしない、1972年のこと。
札幌オリンピックが開かれた年。
オリンピックでなんとなくホッケーを見たが、「こういうスポーツがあるんだな」程度の思いしか抱かなかった。
その同じ年に偶然テレビで見たのが「サミット・シリーズ」と呼ばれている試合だった。
カナダのプロ対ソ連のナショナルチームの試合。
このことについて書き始めると止まらなくなるので書かないが、世界一を決める頂上決戦とだけ書いておく。
この試合で一気にホッケーに夢中になった。
それまでホッケーにはまったく興味がなかったのが、「こんな試合を見にカナダへ行きたい」とまで思わせるほど素晴らしい試合だった。

そして、カナダへ見に行った。
1978年、大学3年生のとき。
当時常勝を誇っていたチームがあるモントリオールへ。
インターネットなどなかったころ。
カナダ大使館に行くなどして情報を集めたが、どこでも「切符は手に入らない」と言われた。
カナダでは、中でもモントリオールは最も伝統があることもあり、それほどの国民的スポーツ。
それでも行った。
テレビで見るだけでもいい、と思った。
日本ではそれも叶わないのだから。

しかし、思いもよらぬことが待っていた。

https://note.com/masakon0308/n/n00b68477d174

【男声合唱】
空手にもホッケーにも夢中になっていた高校時代。
大学受験に失敗し、浪人生活を送りながらもこの二つへの興味は続いていた。
「大学に入ったら絶対にホッケーをやる!」と思っていた。
めでたく入学し、さっそくホッケー部の部室まで行った。
しかし、何故かドアを叩かずに引き返した。
新入生への入部勧誘期間だったので賑わっている校内をトボトボ歩いていたときに声をかけられたのが「グリークラブ」なる倶楽部。
「なんじゃそれ?」と思ったが、無理やりテントに連れてゆかれた。
聞けば合唱だという。
合唱といえば「ママさんコーラス」くらいしか思い浮かばない。
人前で歌うなんて。
そんなものをやる気などまったくなかった。
しかし、なんだか知らないうちに入部してしまった。
「絶対に後悔させないから」という先輩の言葉を覚えている。
実際に後悔していないかどうか。
「していない」と言えるだろう。
今は。

練習は昼休みは毎日、放課後は週に3日だったか。
土曜日は当然。
発声も指揮もプロの先生。
かなり本格的だった。
男声合唱は四つのパートからなっている。
その四つのパートがそれぞれ一つの声になるのが理想。
その上で、他のパートとの組み合わせが要る。
それは音階だったり、タイミングだったり。
単に楽譜通りに歌っているだけでは表現できない。
一人一人が高い意識を持って初めて素晴らしい演奏ができる。
真剣だった。
怒鳴りもした。
その厳しさが好きだった。

世間には多くの合唱団があるが、そこに入ろうとは思わない。
やるならあのときのように真剣にやりたい。
でも、あれは学生だからできたこと。
あの厳しさを社会人の集まりに求めることはできない。
だからやらない。

【和太鼓】
初めて和太鼓というものを意識してからもう40年以上経つ。
一時は、週末はもちろん、平日の仕事の後にも練習に通っていたこともある。

https://note.com/masakon0308/n/nc1d612c746b3

こんなこともあったが、今はすっきりした気持ちでいる。

https://youtu.be/4KW1i_M4BKQ

(左が私)

【落語】
これも高校生のときに目覚めたもの。
こうして振り返ってみると、高校生のときに目覚めたことばかり。
高校時代が人生の転機といって良いのだろう。

国語の先生が言ったこと。
「落語はいいぞ。それも古典がいい。」
この一言で落語に興味を持ち、ラジオで聴き始めた。
当時は落語を聴けるラジオ番組がたくさんあった。
初めて聴いたのが志ん生の「強情灸」。
以来、落語にものめり込んだ。

志ん生はもういなかったが、その息子の志ん朝がいた。
圓生はかなり追いかけた。
歌舞伎座で初めて落語会をやったのは圓生。
もちろん、その会にも行った。
米朝も東京に来たときには必ず行った。
米朝も歌舞伎座でやった。
小三治も追いかけた。
半年に一度の鈴本での独演会。
小さい会場でこの人の噺をたっぷり聴ける唯一の機会だった。
何年通っただろう。

圓生、小さん、正蔵(彦六)、馬生(先代)、志ん朝、小三治。
あまり聴く機会はなかったが、上方では米朝、松鶴、春團治、文枝、枝雀。

そうそうたる顔ぶれが揃っていた贅沢な時期だった。

【仕事】
辛いこと、嫌なことのほうが多かったが、総じて満足している。
海外駐在という貴重な経験もできた。

https://note.com/masakon0308/n/n5d552044024d

https://note.com/masakon0308/n/n945f8ddbaf68

今も別の会社で仕事を続けている。
嫌なことも多い。
でも、これも総じて満足している。

【人】
最後に。
これが一番の思い出であり、財産だろう。
出会った人は多いが、長く付き合えている人は片手の指でも余るほどしかいない。
様々な形で去っていった人たちの中には私に大きな影響を与えてくれた人がいる。
数少ないこれらの人たち。
いずれも感謝しかない。


こうしてみると、まんざらでもない人生だったと言って良いのだろう。