宗教とシロアリについて、父との対話

福井にいる父親と、館山へ車で旅をした。
父はダイビング、僕はその間浜とか島をめぐって、そのあと二人でお土産を買った。東京に住む弟のアメフトの試合を見て、三人で焼き肉を食べた。
色んな話をしたけれど、その中でも記憶から薄れない話をここに記そう。

・寺とは
・現代のパラダイムと浄土真宗
・宗教ポートフォリオ
・思考の構造をブチ壊せ

寺とは

筆者は寺の子である。すなわち、父親は寺である。
数十年前まで、父も寺の子であった。

こんな二人が車に乗れば、語ることは寺のことに決まっている。
寺というのは、いろんな顔を持つ施設であるが、僕と父親の共通した意識として、「心を安らげる場所」っていうものがある。
僧侶は、寺においてその手助けをする人。(米:個人的かつ俗世的意見です)

そうした寺という場、僧侶っていう役職について語った旅路でした。

現代のパラダイムと浄土真宗

寺は「心を安らげる場所」であり、僧侶はその手助けをする人。
そう考えた時、僕は浄土真宗の無力さを考えざるを得ない。
今の世を支配しているプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の中で、「念仏すれば即ち浄土に行ける」という論理はあまりにも非対称的な取引に思われて仕方がない。
禅とか、イスラムの戒律とか、一定の対価を支払ってこそ救われる実感がわくし、現代の商業主義的な価値観にあうんじゃないか。
こんな考えを僕は父に投げかけてみた。

父の答えはこうだった。
「だからこそ、今の価値観に苦しむ人を救えるのは浄土真宗じゃないのかい」
この答えに、僕は黙るしかなかった。
浄土真宗は今の価値観と真逆で、受け入れられなくなる一途なんだろうと考えていた自分にとって、この考え方は希望の星になると確信した。
たぶん、これからの僧侶としての人生に明かりを灯し続けてくれるんだろうと思う。
(心の声:これ本質ですねえ~~~~)

宗教ポートフォリオ

そんな話から繋がって、話のテーマは
「まっさらな状態になったらどの宗教を信じるか?」に移ろった。

僕は神道と答えたが、その理由は別の機会に話そう。
父の答えはまた面白いものだった。
「ごちゃ混ぜだなあ」
父が言うには、一人が一つの宗教を信仰する必要は無いと。
無宗教とかでもなく、いろんな宗教を信じている状態が良いのだと。

浄土を信じたいときにはそうして、キリストを信じたいときはそうして、
神道を信じたいときはそうして、その時々に信じたいものを都合よく信じていけば良いのだという。
それこそが救済であり、一つのイデオロギーに支配されない態度こそが救済に繋がるって語っていた。

まあそうだよね。投資するときも一つの企業だけの株を買うより色んなところの買った方がリスク少ないもんね。世界情勢を踏まえて、よりリスクを低く、リターンを高くするのが最適解だもんね、って俺は思ったよ。
宗教も同じで、一つの価値基準に依存していると、その基準でどうしようもない状況に行き詰ったとき、人生から光が消えてしまう、それを防ぐために多宗教を信仰する戦略は図々しくもあるけど「強い」なあと二人で結論づけた。

思考の構造を叩きまくれ

宗教を都合よく信仰する、って結論は出たけれども。
まだ話は尽きない。新たな疑問が浮き上がってきてしまった。
「何を信仰しているにせよ、無批判な状態が弱いんじゃないか」ってこと。
無宗教の人も、仏教徒も、キリスト教徒も、自分がなぜその状態にあるか説明できない状態は「弱い」んじゃないかという推察。

自分の思考の基礎となる「構造」に無批判だからこそ、その構造は弱く、人間性を貪るような価値観(カルト宗教、シロアリとも呼ばれる)の侵入に気づけず、容易に基礎を奪われてしまうんじゃないかという疑問に至った。

そのシロアリに対抗するための方策として、「自己批判」は重要になると考えている。自分の構造を見つめ、弱い部分を洗い出して、自分の思考のクセを知って、その部分を徹底的に批判する。自分の弱い部分を認識して本を読むなり人と話すなり、補強していく試みが僕たちには必要なんだと思う。
その試みをし続ける限り、僕たちの思考の構造は強くなり続けるし、シロアリというクソな価値観の侵入を防げるんじゃないか、という話を、静岡あたりまでしていた旅路でした。

そのあとはあまり言葉を交わすことなく、昔のガキ使のDVDを眺めながら交互に運転して館山へ向かっていったはずだ。

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